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「ウィルス予防の漢方薬」2/28(金)
P1210348
今日、「横内醫院」から〇〇〇ウィルス予防・完治のための
漢方薬が送られてきました。
最悪の事態を想定して感染者が出た場合には即対応できるよう
ストックしておきます。


P1210346
これは「横内醫院」が出している電磁波ブロッカーです。
人間は電磁波だらけの中で生活していますから電磁波をアース
させ、ブロックしていけるのがこの電磁波ブロッカーです。

首にかけられるひもが付いた袋の中にころ電磁波ブロッカーを
入れて常に身に付けています。
とにかく自分自身で自己防衛していかないとね。


※常に最悪の事態を想定しておくことがリーダーの資質を問われます。
その事実をはっきりと知らされたのが東日本大震災で起こった岩手の
保育園の津波による惨事でした。以下、朝日新聞の記事より転載。


 東日本大震災当日、保育園や幼稚園が保護者に引き渡した園児が、
その後の避難中、津波にのまれて亡くなった例が相次ぎました。岩手
県大槌町の認可保育園「大槌保育園」もそうでした。八木沢弓美子園
長(53)は、8年を経て初めて朝日新聞の取材に応じ、胸に秘めてい
た後悔と問いかけを口にしました。そのわけとは――。

 ――震災前から、熱心に避難訓練をしていたと聞きます。

 定期訓練とは別に、事前に職員にも知らせない抜き打ち訓練もしてい
ました。一度はお昼寝中にいきなり始めました。

 国の最低配置基準では保育士1人あたりでみる子どもの数は0歳児な
ら3人ですが、やってみると、1人で3人抱えるのは無理とわかった。そこ
で、給食の調理師や栄養士も含めてこの子をおんぶするのはこの職員、
と担当を決めていました。

 町が一次避難場所として指定していた空き地は雨風もしのげず、子ど
もの足で歩いて15分はかかった。自治会と相談して、高台のコンビニを
独自に津波避難場所と決め、5分で走って逃げる訓練を繰り返していました。


 ――震災当日は、そのコンビニにも津波が?

 当日は揺れを感じてすぐ、「地震です。先生のそばに集まって下さい。大
丈夫、こわくないからね」と園内放送し、揺れが収まったらすぐ職員が園児
に防災ずきんと上着を着せました。園庭に整列させ点呼をとる決まりにな
っていましたが、そんな時間はないと判断。職員20人で、110人ほどの子
どもを準備できたクラスからすぐ避難させました。

 コンビニの駐車場にいると次々に保護者が迎えに来ました。約70人の子
を引き渡した時点で、ふと水門の方を見ると、決壊し、電信柱がなぎ倒され
ていて津波と気づきました。

 残った40人ほどの子どもと国道を駆け上がり、国道沿いの山の急斜面を
四つんばいになって必死に登り、何とか助かりました。

 暗くなってきたころ火災が起こり、また内陸側へ避難しました。子どもたち
は誰1人泣かず、しーんとして、街が津波にのみこまれ、火に巻かれる様子
をじっと見ていました。歩いて迎えに来た保護者に全員を引き渡し終えたの
は2日後のことです。


 ――一方で、当日、コンビニで引き渡した園児のうち9人が犠牲となりました。

 多くが保護者とともに亡くなりました。最後に引き渡した子は、遺体安置所
で小さな右手を見たとき、すぐわかりました。保育士を辞めなければならない
と思った。

 今でも、その子が「こわい」と言って私の左足にしがみついていたあの日の
感触がよみがえることがあります。ご遺族の気持ちを思えば、自分がした判
断は許されないものです。


 ――ほかの子どもたちに変化はありましたか。

 震災から半年後、親子遠足を計画した時、「行かない」という子がいて、子
どもたちみんなで話し合うことになりました。その中で、初めて亡くなったお
友達の名前が出ました。

 ある年中の女の子が、「なんで津波が来たんだろう」と語り始め、「園長先
生がさ、(犠牲になったTちゃんたちに)『おうちへ帰らないで!』って言え
ばよかったじゃん!」と言いました。初めてぶつけてきた本心でした。「Tち
ゃんに会いたい」と言って、私も含めたみんなで号泣しました。

 親族や家をなくした職員も多く、津波の話は避けていましたが、正直に向
き合わない大人たちの心を見抜いていたのです。

 子どもの代弁者は大人だけど、大人の代弁者も、子どもたちだと気づき
ました。言えないことを言ってくれた。以来、私たちも、悲しいときは保育中
でも「あの子のこと思い出して泣いちゃったよ」と言って泣き、感情を出すこ
とから逃げないようになりました。

 津波ごっこ、地震ごっこといった遊びも最初は多くて戸惑いましたが、喪
失感に打ち勝とうとする子どもの自然な反応だったと思います。

 さらに半年経つと、年長児が、クラス全員の写真を飾りたいと言ってきて
、部屋の一角にその場所を設けました。子どもたちは、写真の前に給食や
おやつをお皿にのせて一口ずつ出して、あげていました。


 ――震災後に園で決めた災害時への備えは?

 いつでも避難できるように昼寝時のパジャマへの着替えをなくし、入園式
の時には、保護者の方たちに「引き渡しはしません」と明確に言って了解を
得ています。何度も職員どうしで話し合って決めたことです。


 ――全国では、災害時を想定して保護者全員が迎えに来るのを待つ「引
き渡し訓練」を実施している園も多いです。

 震災後、ある地域で講演で呼ばれた時に、そういった訓練があることを初
めて知りました。なんで引き渡すんでしょう?

 海から200メートルの園の園長に質問を受けた時、「立地的にうちの園で
全員を守るのは難しいから、すぐ親に引き渡せばいいんですよね」とおっ
しゃっていて、危機感を感じました。

 津波などの災害時、安全な場所や避難経路は刻々と変わります。現場
にいる私たちが、そのつど判断をし、行動をとらないと、子どもの命を守る
ことはできません。迎えに来る保護者が、途中で被災するリスクもあるうえ
、前線で誰かを助けなければならない仕事の保護者もいるでしょう。保育
園や幼稚園に子どもがいる間は、そこにいる大人は100%子どもを守る
というスタンスに立たないといけない。


 ――ただ、施設側が誤った判断をした場合、引き渡さないと逆に命が守
れない危険もあるのでは。教員と避難中に児童が犠牲になった大川小の
例もあります。

 もちろん、津波などの水害と他の災害は違いますし、保護者の理解も必
要です。全国全ての園で引き渡しが100%よいとは思っていませんが、う
ちの園では引き渡さないことが「ベスト」だと思う。

 (犠牲になった)9人のことを思い返しながら、職員どうしで何度も話し合
って決めました。


 子どもの命を預かる施設で、どう対応するかを本気で議論するのは完全
に大人の仕事で、大人の責任です。私は、自分の判断の責任を一生背負
っていかなければならないと思っています。(聞き手・田渕紫織)


子どもの命を預かる施設で、どう対応するかを本気で議論するのは完全
に大人の仕事で、大人の責任です。私は、自分の判断の責任を一生背負
っていかなければならないと思っています。


常に全力を尽くしておかなかった結果が重く自分に圧し掛かり、一生後悔して
もしつくせない事実を背負って自分は生きていかなければならない。なによりも、
尊い人命を自分のいたらさなさで失っていくことは自分の良心が許さない。
責任者として、そしてみんなの親のような存在として、やれることはやりつくして
おこうと出すぎてもいいから感じて決意して行動してしています。

18:49, Friday, Feb 28, 2020 ¦ 固定リンク ¦ コメント(0) ¦ コメントを書く ¦ トラックバック(0) ¦ 携帯

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