「良心の呵責の門」1/17(水)
≪まるぞう備忘録≫より転載
自我が濃い状態から徐々に薄くなっていく。
この時に通過しなければならないのが「良心の呵責の門」で
あろうと思います。
自我が持っていた価値観が逆転するわけですから、
そのギャップは大きいものであります。
今まで自分が大事と思っていた「自我のプライド」を棄てる
ことになりますから。
今まで「自分が正しい」「間違っているのは相手だ」が崩れ
始めます。これは自我にとっては大きな苦痛であります。
「良心の呵責の門」。
これをくぐることが出来た人が、自我を薄くするという進化の
チケットを手にいれた人と言えるかもしれません。
自分が正しい。間違っているのはあいつの方だ!
「自我の濃さ」とは「他人への批難」と深い相関関係があります。
「自我の濃さ」とは「自分が正しい」「相手が間違っている」という
世界でありますから。
もちろん暴力行為や違法行為については、泣き寝入りすることな
く専門家に相談して、淡々と対処することは重要であります。
身を守ることは私達の生きる義務でありますから。
しかしごく一般的な社会の中でのケースであります。
「良心の呵責の門」をくぐると、他人への批難は激減することであり
ましょう。それは視点が逆転してしまうからです。ああ、自分が悪か
った。穴があったら入りたい。過去の自分の自我がなしたことに対
して顔から火がでるような思いに耐える。
これが「良心の呵責の門」をくぐるということであります。
上から目線から下から目線への変化。
「良心の呵責の門」をくぐると、人は非常に謙虚になる。そのような
仮説であります。
先日考察した親鸞聖人の下から目線。これは「良心の呵責の門」を
くぐった人の特長であります。仮説からはそう導かれます。
上から目線の人が、下から目線に変化する。これは並大抵なことで
はありません。多くの場合、人生の大きな挫折によって、人は「謙虚」
に変化できるように思います。
そういう意味で、挫折とは、人生の宝である。
という言葉は本当でありました。
自分が常に正しいと思っていたことは間違いだった。
間違っていたのは自分だった。( ̄▽ ̄;)!!カ゛ーン
そのショックにに耐えられるかどうか。自我が薄くなり始めば、自我は
「消えたくない」という最後の抵抗をします。
消え行く中で自我は痛みを感じることでしょう。
これからの人類は「良心の呵責の門」をくぐり抜けられた人と、
そうでない人に分かれていくかもしれません。
「良心の呵責の門」をくぐり抜けるということは、自分の自我が消える痛
みをクリアするということであります。
というのが本日の記事の仮説であります。≪転載終了≫
まことにごもっとなお話です。
ある方のブログに人間の意識には段階があるので、その段階の意識
についてあれこれいうことを私はしない。
とありましたが、そうだよなあ・・と、思います。
過去の私と今の私の意識は違います。
それも年齢と共に、経験を積むごとに微妙に違ってきています。
つまり、受け入れる幅が広くなってきているということです。
実るほど首を垂れる稲穂かなって、そういうことがどんどん加速して
身に付いていくということでしょうね。年齢と共にそうなりたいな。
※明日は朝一の飛行機で広島に帰って光源寺堀住職の葬儀に
出勤します。日帰りです。
自我が濃い状態から徐々に薄くなっていく。
この時に通過しなければならないのが「良心の呵責の門」で
あろうと思います。
自我が持っていた価値観が逆転するわけですから、
そのギャップは大きいものであります。
今まで自分が大事と思っていた「自我のプライド」を棄てる
ことになりますから。
今まで「自分が正しい」「間違っているのは相手だ」が崩れ
始めます。これは自我にとっては大きな苦痛であります。
「良心の呵責の門」。
これをくぐることが出来た人が、自我を薄くするという進化の
チケットを手にいれた人と言えるかもしれません。
自分が正しい。間違っているのはあいつの方だ!
「自我の濃さ」とは「他人への批難」と深い相関関係があります。
「自我の濃さ」とは「自分が正しい」「相手が間違っている」という
世界でありますから。
もちろん暴力行為や違法行為については、泣き寝入りすることな
く専門家に相談して、淡々と対処することは重要であります。
身を守ることは私達の生きる義務でありますから。
しかしごく一般的な社会の中でのケースであります。
「良心の呵責の門」をくぐると、他人への批難は激減することであり
ましょう。それは視点が逆転してしまうからです。ああ、自分が悪か
った。穴があったら入りたい。過去の自分の自我がなしたことに対
して顔から火がでるような思いに耐える。
これが「良心の呵責の門」をくぐるということであります。
上から目線から下から目線への変化。
「良心の呵責の門」をくぐると、人は非常に謙虚になる。そのような
仮説であります。
先日考察した親鸞聖人の下から目線。これは「良心の呵責の門」を
くぐった人の特長であります。仮説からはそう導かれます。
上から目線の人が、下から目線に変化する。これは並大抵なことで
はありません。多くの場合、人生の大きな挫折によって、人は「謙虚」
に変化できるように思います。
そういう意味で、挫折とは、人生の宝である。
という言葉は本当でありました。
自分が常に正しいと思っていたことは間違いだった。
間違っていたのは自分だった。( ̄▽ ̄;)!!カ゛ーン
そのショックにに耐えられるかどうか。自我が薄くなり始めば、自我は
「消えたくない」という最後の抵抗をします。
消え行く中で自我は痛みを感じることでしょう。
これからの人類は「良心の呵責の門」をくぐり抜けられた人と、
そうでない人に分かれていくかもしれません。
「良心の呵責の門」をくぐり抜けるということは、自分の自我が消える痛
みをクリアするということであります。
というのが本日の記事の仮説であります。≪転載終了≫
まことにごもっとなお話です。
ある方のブログに人間の意識には段階があるので、その段階の意識
についてあれこれいうことを私はしない。
とありましたが、そうだよなあ・・と、思います。
過去の私と今の私の意識は違います。
それも年齢と共に、経験を積むごとに微妙に違ってきています。
つまり、受け入れる幅が広くなってきているということです。
実るほど首を垂れる稲穂かなって、そういうことがどんどん加速して
身に付いていくということでしょうね。年齢と共にそうなりたいな。
※明日は朝一の飛行機で広島に帰って光源寺堀住職の葬儀に
出勤します。日帰りです。
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