「気がきくということ」1/9(火)
早朝の仏参とミィーテングでは
一つの出来事を通して業務改善が行われると共に
個々の意識の変革が迫られます。、
この意識の改善とは、
気がきく人、配慮のある人への
意識の変革です。
気がきく人、配慮のある人とは、
相手の痛みが分かる人です。
自分で痛みを感じない人は、相手の痛みも
感じられません。
相手の痛みが感じられる人は、
相手に傷みを与えてはいけないと思うから、
そこで気を使っていくようになります。
相手のことを思って配慮した
行動を取る様になっていきます。
これが気がきく、配慮があるの
スタートラインです。
これは専門的知識があるとか、
マニュアルを徹底しているとか、
新人だとかベテランだとかいう問題ではない。
仲間に対して、お客様に対しての
「こんなことをしたら、しなかったら、相手に迷惑を
かけるんじゃないか」という、傷みに対して敏感か
鈍感か、ということなのです。
こういった相手の痛みが分かる人は、
とても敏感でアンテナが鋭いので、日常でも
仕事上でも気がきくし、配慮があります。
当然、責任もあります。
仕事では気がきくけども、
プライベートはまったく気がきがきかな人は、
本当はまったく気がきかない人なのです。
ですから、
仕事で気をきかせるためには、
配慮ある人になるためには、意識して日常生活で
どれだけ気をきかせることができるかが大事です。
誰かに気をきかせてもらって嬉しかったり、
自分の気配りの無さで誰かを傷つけたり、
そういう痛みのある経験がすべて仕事の現場に
反映されてくるのです。
傷みの体験って、
嫌なことですが、気配りや配慮のある人は
みんな深い痛みを経験してきているのです。
それでも「えっ?」と思うようなポカをします。
その後のフォローですね、
配慮や気配りがさらに問われるのが。
ここですよ、ここ。
・・・・・・・・・・
≪まるぞう備忘録≫
南無阿弥陀仏5より転載
自分の心の奥深くの声を聴くことを思い出せた人。
親鸞聖人もまたそういう御方であったのかもしれません。
心の奥底の声。
それは良心の声とも言われます。
良心の声に従って生きて行こうとすると、
今度は自分の心の欲深さが目につくようになります。
あらゆる瞬間に、ワレヨシの自分が出てきます。
スケベエな自分が出てきます。
ええかっうしいの自分が出てきます。
言い訳小僧の自分が出てきます。
良心からの目線とは下から目線でありました。
心の奥底の声。
それは自分自身の生命(いのち)の声でもありました。
社会から否定されて生きている人。
誰からも理解されない人。
そういう人でも、誰もが生きている尊い生命(いのち)であります。
心の奥底の生命(いのち)の声は言います。
誰かに認められて受け入れられなくてもいい。
そんなことは問題ない。
自分は自分で精一杯生きてるだろ。
もうそれだけで充分なんだよ。
だってあなは生命(いのち)なんだから。
世界であなたを受け入れる人が一人もいなくても大丈夫。
なぜなら私があなたを100%受け入れている。
私がずっとあなたのそばにいる。
なぜなら私はあなた自身だから。
私はあなたの生命(いのち)だから。
心の奥底の声。
それは自分と他人の区別のない声でありました。
私達の心の奥底では、
自分と他人の区別はありません。
相手が辛い時は、自分もまた同じように辛いのでありました。
自分が辛い時は、やはり相手の心の奥底も辛さを感じているのでした。
自分を責める癖のある人。
あるいは、他人を責める癖のある人。
いずれの人も、自分の心の奥底の声を聴く。
そうするとその奥底では、自分と他人の区別はないのでした。
自分を責める人も他人を責める人も、勘違いしているのは、
自分は他人たちと分離していると思っていることでありました。
それは表面の自我の勘違いであります。
自分を責めることも他人を責めることも、
それは表面の自我の勘違いから出てくることでありました。
親鸞聖人の仰った言葉。
まずは「南無阿弥陀仏」だけを唱えなさい。
この真実を、真剣に行えば、どんな人でも「自分の心の奥底の声」を
「真実(仏の、親の)の呼び声」を聴くことができるようになる。
そして一度「自分の心の奥底の声」を聴くことを思い出したなら、
あとは自分で進んでいきなさい。≪転載終了≫
教義ではこうはいかないけど、
まるぞうさん、
お念仏の本質的なところを
しっかりと分かっていらっしゃる。
いつもながら、真実をブラさないのは
さすがだと思います。
み佛は
「み仏は人のいのちのおくふかく
来たりやどりて今日もまた
南無阿弥陀仏と喚びたもう
南無阿弥陀仏と喚びたもう」
信樂 峻麿
うちの会社で
よくスタッフたちに聞くのは、
「念仏出てるか?」。
いつでも、どこでも、どんな時でもお念仏申す。
それはまさしく自身の心の奥底に宿る私の生命(いのち)、
仏のいのちと共に生きているということですね。
そうすれば、
不器用なりにも、
自分をごまかさず、
素直に良心を意識して
生きようとしていくようになります。
本当の自分の生命(いのち)は
メチャクチャ純粋で優しいから。
そして何より、保身がないと
純粋に他の事を思ったいい仕事が
できます。
世俗と真実の二元論じゃない
世俗の中を迷わず真実を生きる一元論の信心を
頑張って生きていきたいです。
一つの出来事を通して業務改善が行われると共に
個々の意識の変革が迫られます。、
この意識の改善とは、
気がきく人、配慮のある人への
意識の変革です。
気がきく人、配慮のある人とは、
相手の痛みが分かる人です。
自分で痛みを感じない人は、相手の痛みも
感じられません。
相手の痛みが感じられる人は、
相手に傷みを与えてはいけないと思うから、
そこで気を使っていくようになります。
相手のことを思って配慮した
行動を取る様になっていきます。
これが気がきく、配慮があるの
スタートラインです。
これは専門的知識があるとか、
マニュアルを徹底しているとか、
新人だとかベテランだとかいう問題ではない。
仲間に対して、お客様に対しての
「こんなことをしたら、しなかったら、相手に迷惑を
かけるんじゃないか」という、傷みに対して敏感か
鈍感か、ということなのです。
こういった相手の痛みが分かる人は、
とても敏感でアンテナが鋭いので、日常でも
仕事上でも気がきくし、配慮があります。
当然、責任もあります。
仕事では気がきくけども、
プライベートはまったく気がきがきかな人は、
本当はまったく気がきかない人なのです。
ですから、
仕事で気をきかせるためには、
配慮ある人になるためには、意識して日常生活で
どれだけ気をきかせることができるかが大事です。
誰かに気をきかせてもらって嬉しかったり、
自分の気配りの無さで誰かを傷つけたり、
そういう痛みのある経験がすべて仕事の現場に
反映されてくるのです。
傷みの体験って、
嫌なことですが、気配りや配慮のある人は
みんな深い痛みを経験してきているのです。
それでも「えっ?」と思うようなポカをします。
その後のフォローですね、
配慮や気配りがさらに問われるのが。
ここですよ、ここ。
・・・・・・・・・・
≪まるぞう備忘録≫
南無阿弥陀仏5より転載
自分の心の奥深くの声を聴くことを思い出せた人。
親鸞聖人もまたそういう御方であったのかもしれません。
心の奥底の声。
それは良心の声とも言われます。
良心の声に従って生きて行こうとすると、
今度は自分の心の欲深さが目につくようになります。
あらゆる瞬間に、ワレヨシの自分が出てきます。
スケベエな自分が出てきます。
ええかっうしいの自分が出てきます。
言い訳小僧の自分が出てきます。
良心からの目線とは下から目線でありました。
心の奥底の声。
それは自分自身の生命(いのち)の声でもありました。
社会から否定されて生きている人。
誰からも理解されない人。
そういう人でも、誰もが生きている尊い生命(いのち)であります。
心の奥底の生命(いのち)の声は言います。
誰かに認められて受け入れられなくてもいい。
そんなことは問題ない。
自分は自分で精一杯生きてるだろ。
もうそれだけで充分なんだよ。
だってあなは生命(いのち)なんだから。
世界であなたを受け入れる人が一人もいなくても大丈夫。
なぜなら私があなたを100%受け入れている。
私がずっとあなたのそばにいる。
なぜなら私はあなた自身だから。
私はあなたの生命(いのち)だから。
心の奥底の声。
それは自分と他人の区別のない声でありました。
私達の心の奥底では、
自分と他人の区別はありません。
相手が辛い時は、自分もまた同じように辛いのでありました。
自分が辛い時は、やはり相手の心の奥底も辛さを感じているのでした。
自分を責める癖のある人。
あるいは、他人を責める癖のある人。
いずれの人も、自分の心の奥底の声を聴く。
そうするとその奥底では、自分と他人の区別はないのでした。
自分を責める人も他人を責める人も、勘違いしているのは、
自分は他人たちと分離していると思っていることでありました。
それは表面の自我の勘違いであります。
自分を責めることも他人を責めることも、
それは表面の自我の勘違いから出てくることでありました。
親鸞聖人の仰った言葉。
まずは「南無阿弥陀仏」だけを唱えなさい。
この真実を、真剣に行えば、どんな人でも「自分の心の奥底の声」を
「真実(仏の、親の)の呼び声」を聴くことができるようになる。
そして一度「自分の心の奥底の声」を聴くことを思い出したなら、
あとは自分で進んでいきなさい。≪転載終了≫
教義ではこうはいかないけど、
まるぞうさん、
お念仏の本質的なところを
しっかりと分かっていらっしゃる。
いつもながら、真実をブラさないのは
さすがだと思います。
み佛は
「み仏は人のいのちのおくふかく
来たりやどりて今日もまた
南無阿弥陀仏と喚びたもう
南無阿弥陀仏と喚びたもう」
信樂 峻麿
うちの会社で
よくスタッフたちに聞くのは、
「念仏出てるか?」。
いつでも、どこでも、どんな時でもお念仏申す。
それはまさしく自身の心の奥底に宿る私の生命(いのち)、
仏のいのちと共に生きているということですね。
そうすれば、
不器用なりにも、
自分をごまかさず、
素直に良心を意識して
生きようとしていくようになります。
本当の自分の生命(いのち)は
メチャクチャ純粋で優しいから。
そして何より、保身がないと
純粋に他の事を思ったいい仕事が
できます。
世俗と真実の二元論じゃない
世俗の中を迷わず真実を生きる一元論の信心を
頑張って生きていきたいです。
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