「不染鉄」1/20(日)
◆不染 鉄(ふせんてつ)
1891(明治24)年、東京生まれ。
小石川の光円寺住職であった不染信翁と母・梅田かの子の間に
生まれる。
幼少期は複雑な家庭環境からか、素行の悪さで周囲を困らせ、
千葉の漁村の寺に修行に出されたりもするが、20歳前後で両親
を亡くす。
絵の道に進むとを決め、1914(大正3)年、23歳で日本美術院研究
会員となる。
制作に邁進するも才能と将来に不安を抱え身を持ち崩し、その頃
出会った妻とともに伊豆大島へ渡る。
悪天候のなかたどり着いた漁村・岡田村で温かく迎えられ、漁師
のまねごとをして3年程暮らす。
その後、美術研精会で《秋声》が佳作に選ばれたのを機に京都へ
移住し、京都市立絵画専門学校日本画科予科に入学。
以降、帝展での受賞が続き、1923(大正12)年、京都市立絵画専門
学校本科を首席卒業。
上村松篁とは親しく、長く交流が続いた。
やがて住まいを奈良へ移し、帝展への出品を中心に制作を続けて
いたが、1946(昭和21)年、初代理事長が戦後の公職追放にあった
ため、かわりに奈良県正強中学校の2代目理事長に就任し、その
後校長となる。
退職後、67歳で妻を亡くし、市内の知人の好意で敷地内に小さな家
を建て暮らす。
1976(昭和51)年2月28日、84歳で直腸がんのため死去。
1996(平成8)年、奈良県立美術館で開催された20年記念特別展を
経て、没後40年の2017(平成29)年、東京ステーションギャラリーと
奈良県立美術館の2カ所巡回で回顧展を開催し、大きな反響を得た。
≪山海図絵(副題:伊豆の追憶)・1925年≫
不染鉄の代表作に雪を抱いた気高い富士山を描いた大作《山海図絵》
(1925年第六回帝展、木下美術館蔵)があります。
俯瞰図と接近の相まった細密画独特の視点で描いた代表作で、
水中に群れ遊ぶ魚や鮹のいる穏やかな伊豆の海岸から、凍えるように
厳しい日本海岸の冬景色の村々までをも一望に描いた傑作です。
後年、不染鉄自身がこの作品について「大正十二年十二月中旬大島
へ参りました。暖かい島のことですから、海岸を散歩し乍ら、はるか水
平線上の内地の山々を眺めていました。
頂の白い富士山を見ているうちにいろいろな連想が連想を生んで果て
しもないので、フトこれを画面に刻みつけたいと思ったのが制作の動機
です。やって見ると色々な困難がありましたが、所謂画を作るのを目的
としませんのでその心に浮んだありのままを表現することに力をつくしま
した。」と作品の作意を語っています。
不染の「芸術はすべて心である。芸術修行とは心をみがく事である」と
言う、ひたすら己の求める絵に向きあう姿勢が実感できる作品です
。同作品が京都国立近代美術館新館開館記念展(1986年)で公開され
たとき、その発想の見事さ、雄大さ、緻密さに心打たれた美術愛好家た
ちから、この未知の画家に対する詮索の質問が相次いだと言われています。
不染鉄は人生の中で出会った風景を、生涯繰り返し描いた。
生まれ育った寺院のイチョウの木。
漁師として暮らした伊豆大島の村落と海。
奈良・西ノ京に住んで見た古都の情景。
「美の巨人たち」の番組では、晩年不染鉄と絵葉書の交流をし
た女性などの証言によって、人生の足跡を明らかにしながら、
不染鉄の郷愁あふれる幻想の風景世界を紹介していた。
その人生は彼が何度も何度も模写したという一遍上人のような
自由でありのままのものであった。
※今日は東京に出て久々に麻生十番の「更科本店」で、
天ぷらそばを食べました。美味しかった・・・。やっぱり時々、東京に
出て美術館巡りに行くことにしました。心の中の潤いってやっぱり
大切ですからね。
1891(明治24)年、東京生まれ。
小石川の光円寺住職であった不染信翁と母・梅田かの子の間に
生まれる。
幼少期は複雑な家庭環境からか、素行の悪さで周囲を困らせ、
千葉の漁村の寺に修行に出されたりもするが、20歳前後で両親
を亡くす。
絵の道に進むとを決め、1914(大正3)年、23歳で日本美術院研究
会員となる。
制作に邁進するも才能と将来に不安を抱え身を持ち崩し、その頃
出会った妻とともに伊豆大島へ渡る。
悪天候のなかたどり着いた漁村・岡田村で温かく迎えられ、漁師
のまねごとをして3年程暮らす。
その後、美術研精会で《秋声》が佳作に選ばれたのを機に京都へ
移住し、京都市立絵画専門学校日本画科予科に入学。
以降、帝展での受賞が続き、1923(大正12)年、京都市立絵画専門
学校本科を首席卒業。
上村松篁とは親しく、長く交流が続いた。
やがて住まいを奈良へ移し、帝展への出品を中心に制作を続けて
いたが、1946(昭和21)年、初代理事長が戦後の公職追放にあった
ため、かわりに奈良県正強中学校の2代目理事長に就任し、その
後校長となる。
退職後、67歳で妻を亡くし、市内の知人の好意で敷地内に小さな家
を建て暮らす。
1976(昭和51)年2月28日、84歳で直腸がんのため死去。
1996(平成8)年、奈良県立美術館で開催された20年記念特別展を
経て、没後40年の2017(平成29)年、東京ステーションギャラリーと
奈良県立美術館の2カ所巡回で回顧展を開催し、大きな反響を得た。
≪山海図絵(副題:伊豆の追憶)・1925年≫
不染鉄の代表作に雪を抱いた気高い富士山を描いた大作《山海図絵》
(1925年第六回帝展、木下美術館蔵)があります。
俯瞰図と接近の相まった細密画独特の視点で描いた代表作で、
水中に群れ遊ぶ魚や鮹のいる穏やかな伊豆の海岸から、凍えるように
厳しい日本海岸の冬景色の村々までをも一望に描いた傑作です。
後年、不染鉄自身がこの作品について「大正十二年十二月中旬大島
へ参りました。暖かい島のことですから、海岸を散歩し乍ら、はるか水
平線上の内地の山々を眺めていました。
頂の白い富士山を見ているうちにいろいろな連想が連想を生んで果て
しもないので、フトこれを画面に刻みつけたいと思ったのが制作の動機
です。やって見ると色々な困難がありましたが、所謂画を作るのを目的
としませんのでその心に浮んだありのままを表現することに力をつくしま
した。」と作品の作意を語っています。
不染の「芸術はすべて心である。芸術修行とは心をみがく事である」と
言う、ひたすら己の求める絵に向きあう姿勢が実感できる作品です
。同作品が京都国立近代美術館新館開館記念展(1986年)で公開され
たとき、その発想の見事さ、雄大さ、緻密さに心打たれた美術愛好家た
ちから、この未知の画家に対する詮索の質問が相次いだと言われています。
不染鉄は人生の中で出会った風景を、生涯繰り返し描いた。
生まれ育った寺院のイチョウの木。
漁師として暮らした伊豆大島の村落と海。
奈良・西ノ京に住んで見た古都の情景。
「美の巨人たち」の番組では、晩年不染鉄と絵葉書の交流をし
た女性などの証言によって、人生の足跡を明らかにしながら、
不染鉄の郷愁あふれる幻想の風景世界を紹介していた。
その人生は彼が何度も何度も模写したという一遍上人のような
自由でありのままのものであった。
※今日は東京に出て久々に麻生十番の「更科本店」で、
天ぷらそばを食べました。美味しかった・・・。やっぱり時々、東京に
出て美術館巡りに行くことにしました。心の中の潤いってやっぱり
大切ですからね。
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