「自分磨きの場」7/29(金)
日曜日は
「原爆忌・盂蘭盆会法要」を
広島のお寺でお勤めしますので、
今日、副住職の潤聖が広島に帰りました。
うちのお寺は
小さなお寺ですから法務の調整をしては
こうやって仕事に来てくれています。
もう、こうやって
何年も工場に来てくれているので、
早朝からは洗い場を手伝い、品物の入力を行い、
品物の写真撮影や、外注出の支度をしたりと、
今では完全にスタッフの一員として機能して
くれています。
そしてお葬式が入ると
以前私がとんぼ返りしたように
すぐに飛行機に乗って広島のお寺に
帰っていきます。
その分、
私は司令塔であった法子さんが
病気の療養で居なくなった分、ここに居て様々な
指示命令を出すことができます。
クリーニングの仕事は
まさに現場第一主義というか
現場にいて実際にモノを見ていないと
アクシデントやクレームが起こったとしても
即時対応することができません。
そういうことからいうと、
広島に要る坊守(妻)や副住職である
潤聖がすぐに広島に帰って法務を勤めてくれるので
今の私は誰も役割を変われる人がいないので
本当に助かっています。
とはいえ、
この日曜日にある要の法要などは、
必ず仕事を調整して広島に帰って
私も法務を勤めます。
法務とは、
お経を読んだり、
お説教をして皆さんに
仏教のお話をしたり。
今回の法要は、
九時から私がお経を読み、
その後の前席で副住職の潤聖がお話をし、
その後は、七条袈裟を着用して「原爆忌・盂蘭盆会」の
法要をお勤めし、参詣の皆さんはお焼香をします。
そして後席のお話は私が勤めて
法要を終了します。
副住職の潤聖も
頼まれてはいろんなところにお説教に行って
ますから、仏さんのお話しすることは慣れています。
ただ、うちのような実践者の集まりの場で、
お寺や老人会や福祉施設と同じように
お話しするとどうなるのか?
実はまったく伝わらなく
通用しません。
みんな常に
手抜き抜きの本気で事に当たって
いますから、上手な話とか、小手先で表面的な話は
まったく伝わっていかないのです。
実は昨日、
腕試しと言うか、勉強のために
みんなの前で法話をさせたのですが、
彼は頭もよく話は上手なのですが、いや〜〜〜、
後ろから見ていて、まったく伝わっていってない。
みんな下を向いてしまって「う〜〜ん??」
という状態で、なかなか難しいものがありました。
これは彼だけでなく
他のお坊さんが来てお話しても
まったく同じような状態になるだろうと思います。
うちの連中はとくにそうなのですが、
話の上手下手ではないのです。
感じる、心に感じて伝わっていく、その人が
本当に生きて体験した話、その中から深く気づき
目覚め、さらに現在実践している本当の
話でないとまったく感じられない。
入らない。
だから、
坊さんとしては本当に
自身のいのちが語るそこを生きてないと
まったく通用しないのです。
これは理屈じゃないです。
ただ、それが本当ですが・・・。
それぐらいうちの会社は
ガチでいつも法子さんに真実を
問われて自身を省みてきたということです。
だから真実を生きてないと
何を言っても上手な話をしてもまったく
伝わって行かない。
とにかく通用しないのです。
彼もそういう現場に来て
日々のルーチンを行っているわけですから、
本当にお寺や保育園ではまったく体験できない
ことばかりを体験させてもらってる。
そして少しずつではありますが、
自身の固くなな自我の殻がはがれていっている
溶かされていっている。
傍から見てるとそんな感じです。
あれがお寺や保育園だけにいたのでは
どうにもならないでしょう。
処世術は身に付け周りと合わせることは
テクニック的に学べても、また、
知識が増えて法話のテクが
上手くなっても、
本当の意味で、自分を真剣に見つめるということは
ないと思うし、真剣勝負で素直、謙虚、
感謝、自助努力とは何かを自身に
つきつけられ、問いかけるることはまったく
ないと思います。
ですから、
宗教的にも、
人間的にも、
ほんとうに彼はここに来て
自分を見つめ直し、自分を磨くという
とても良いチャンスを与えてもらっている
と思います。
まあ、他のメンバーと同じく
まだまだ生きる基本を学んでる状態ですから
ポカばっかりですが・・・頑張ってます。
「原爆忌・盂蘭盆会法要」を
広島のお寺でお勤めしますので、
今日、副住職の潤聖が広島に帰りました。
うちのお寺は
小さなお寺ですから法務の調整をしては
こうやって仕事に来てくれています。
もう、こうやって
何年も工場に来てくれているので、
早朝からは洗い場を手伝い、品物の入力を行い、
品物の写真撮影や、外注出の支度をしたりと、
今では完全にスタッフの一員として機能して
くれています。
そしてお葬式が入ると
以前私がとんぼ返りしたように
すぐに飛行機に乗って広島のお寺に
帰っていきます。
その分、
私は司令塔であった法子さんが
病気の療養で居なくなった分、ここに居て様々な
指示命令を出すことができます。
クリーニングの仕事は
まさに現場第一主義というか
現場にいて実際にモノを見ていないと
アクシデントやクレームが起こったとしても
即時対応することができません。
そういうことからいうと、
広島に要る坊守(妻)や副住職である
潤聖がすぐに広島に帰って法務を勤めてくれるので
今の私は誰も役割を変われる人がいないので
本当に助かっています。
とはいえ、
この日曜日にある要の法要などは、
必ず仕事を調整して広島に帰って
私も法務を勤めます。
法務とは、
お経を読んだり、
お説教をして皆さんに
仏教のお話をしたり。
今回の法要は、
九時から私がお経を読み、
その後の前席で副住職の潤聖がお話をし、
その後は、七条袈裟を着用して「原爆忌・盂蘭盆会」の
法要をお勤めし、参詣の皆さんはお焼香をします。
そして後席のお話は私が勤めて
法要を終了します。
副住職の潤聖も
頼まれてはいろんなところにお説教に行って
ますから、仏さんのお話しすることは慣れています。
ただ、うちのような実践者の集まりの場で、
お寺や老人会や福祉施設と同じように
お話しするとどうなるのか?
実はまったく伝わらなく
通用しません。
みんな常に
手抜き抜きの本気で事に当たって
いますから、上手な話とか、小手先で表面的な話は
まったく伝わっていかないのです。
実は昨日、
腕試しと言うか、勉強のために
みんなの前で法話をさせたのですが、
彼は頭もよく話は上手なのですが、いや〜〜〜、
後ろから見ていて、まったく伝わっていってない。
みんな下を向いてしまって「う〜〜ん??」
という状態で、なかなか難しいものがありました。
これは彼だけでなく
他のお坊さんが来てお話しても
まったく同じような状態になるだろうと思います。
うちの連中はとくにそうなのですが、
話の上手下手ではないのです。
感じる、心に感じて伝わっていく、その人が
本当に生きて体験した話、その中から深く気づき
目覚め、さらに現在実践している本当の
話でないとまったく感じられない。
入らない。
だから、
坊さんとしては本当に
自身のいのちが語るそこを生きてないと
まったく通用しないのです。
これは理屈じゃないです。
ただ、それが本当ですが・・・。
それぐらいうちの会社は
ガチでいつも法子さんに真実を
問われて自身を省みてきたということです。
だから真実を生きてないと
何を言っても上手な話をしてもまったく
伝わって行かない。
とにかく通用しないのです。
彼もそういう現場に来て
日々のルーチンを行っているわけですから、
本当にお寺や保育園ではまったく体験できない
ことばかりを体験させてもらってる。
そして少しずつではありますが、
自身の固くなな自我の殻がはがれていっている
溶かされていっている。
傍から見てるとそんな感じです。
あれがお寺や保育園だけにいたのでは
どうにもならないでしょう。
処世術は身に付け周りと合わせることは
テクニック的に学べても、また、
知識が増えて法話のテクが
上手くなっても、
本当の意味で、自分を真剣に見つめるということは
ないと思うし、真剣勝負で素直、謙虚、
感謝、自助努力とは何かを自身に
つきつけられ、問いかけるることはまったく
ないと思います。
ですから、
宗教的にも、
人間的にも、
ほんとうに彼はここに来て
自分を見つめ直し、自分を磨くという
とても良いチャンスを与えてもらっている
と思います。
まあ、他のメンバーと同じく
まだまだ生きる基本を学んでる状態ですから
ポカばっかりですが・・・頑張ってます。
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