『素』
代表のお寺、長松寺での御法話は、
胸にぐうっと感じるものでした。
親の業。親の子を思う心。
いかなる思い出、喩え話であっても、
その言葉の音とともに、
意味を超越した、感触が伝わってきます。
聴聞しながら、法話されている
あの ちょっといかつい、、(スイマセン・)
代表のことが、かわいくてかわいくて仕方なく見えていたのは、
お話されていたお爺ちゃんのきもちか、
はたまた 大きな宇宙大の親、
阿弥陀の気持ちか、
と、思わされました。
独りひとりに、阿弥陀さんがいらっしゃるというおはなし、
それはまさに、自分の本当の
奥底につながるものを信じ引き受け、
救いも解放も、そこにつながる統べての
私といういのちを、認めてあげる
という、外と内とがひっくり返って包み込まれるような、
すべての対象が包括されるような、
愛を感じたお話でした。
だからこそ、今という相対の世界をワクワク生きれる
そんな気持ちでした。
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