「いのちが輝く世界」
仏教では理想世界を「天国」ではなく「浄土」と言います。
「浄土」は、それぞれの色を、それぞれが100㌫出し切って光っている世界です。
親鸞聖人は、その浄土を「無量光明土」と言われました。
無量の「いのち」が、無量の「光明」を放って互いに照らし合い、引き立て合う世界です。
金子大栄という人は「浄土」は「相照の世界」であると教えて下さっています。
それぞれの「いのち」が、自分しかない光を放って、他の「いのち」を照らし温め合ってる世界ということです。
私たちのように自我の拡大に明け暮れ、欲望の充足、享楽の追求だけを生き甲斐のように思って、互いに相手を傷つけあっている「相障の世界」「相殺の世界」に住んでいる者には思いもおよばない世界です。
しかし、日々の仕事の中で自分本位な小さな自我に目覚め、見え隠れする欲望充実、享楽追求の人生の空しいことに気づく時、間違いなく私たちが往くべき世界として眼前に開けてくるのが「浄土」なのです。
自我拡大に明け暮れている人の住む世界を、「穢土」といい、「自在」を実現した方の住む世界が「浄土」です。
私たちが本当に目指すべき「いのち」の方向は、一人ひとりが自らの「いのち」を生きることのできる「浄土」です。逆にいいますと、「浄土」は「穢土」に住む私たちに、こちらに来なさいと、「いのち」の進むべき方向を現に示して下っている世界です。
そして、私たちに「いのち」の進むべき方向を示し続けて下さっています。
死後、突然に「浄土」が現れるわけではなく、今、現に「穢土」の私たちに光を投げかけ、私たちに「愛情いっぱいの生活を送りなさい」と呼びかけ続けて下さっている世界が「浄土」です。「わたしの浄土真宗」著:藤田徹文より抜粋転載
私たちはクセだらけで決して立派な人間にはなれませんが、仏さんの大きな慈悲の心に出遇って、見えなかった我を、気づかた傲慢さをありののまま見せてもらう、自分には見えないわが心を知らせてもらうことで、人間としての道を歩ませてもらう。
油断をすればまた、流されてしまっている愚かな自分に気づかせてもらう。
自分は良い人間だと思い込んでいても、縁に触れればいろんな我が飛び出して私であるが、常に見守って導いて下さる仏さんがいらっしゃる。未熟ながら共に生かされて生きているる仲間がいる。そんな私たちが自分の出来える精一杯のことをさせていただく、それが「無量光明の世界」を生きるということ。
不器用で、特別な才能を持たない人間ばかりであるが、仏の呼び声を聞き、自分のクセの強さに気づかされながら、純粋に、素直に、そしてまっすぐに感謝と共に生きて行こうとしている人たち、私や法子さんと共に愛情心を育てられている集団、それがナチュラルクリーンの仲間たちだと思う。
この生き方は死ぬまで続く。それが生涯現役ということ、何があろうと、与えられた尊い縁を喜びながら生きるということ。とにかくそうういう方向に導かれてますね、うちは。有難い。