「努力はするが、結果には執着しない」
聖なる真理を見た優れた人は、
城壁の門の柱は、地下深くまで打ち込まれており、
四方からの風圧にもびくともしません。
貴い四つの真理である四諦を理解し、自ら心掛ける人は、
城壁の門のようにびくともしないことを、私は断言します。
この優れた真理は、集団で学ぶ社会の中でこそ生きます。
この真理により、幸福でありましょう。
(原始仏典『スッタニパータ』第二章第一節ー二百二十九番)
仏教の根本理念である「四諦」とは、「四つの執着をあきらめる方法」です。
①人が生きるということは。「苦」(思う通りにならない)であるという真理
②その苦の原因は、人間の「執着」にあるという真理
③その苦を滅した境地が、「悟り」であるという真理
④その悟りに到達する方法が、「仏道」であるという真理
人の苦しみの原因のすべては「執着」から起こると釈尊は指摘します。
だから、「何事にも執着しなければ、苦しみは発生しない」と断言します。
でも、何でも諦めれば、本当に苦痛から解放されるのか?
ここで勘違いしたらいけないのは、「諦める=何もしない=努力しない」では
決してないということです。
●自分ができる最善の努力をしながら、その結果には執着しない。
●諦めた上で努力したほうが、脱力した本当の自分力が出て、創造的な力が働きます。
●すべてを諦め期待しない方が、冷静な視点で物事を見て、より良い直感と閃きが
起こります。
釈尊は、「四諦」を通じて、何もしないという諦めではなくて、諦めた上で仏道に
専心することが、人を真に幸せにするとします。
それは、城壁の門の太い柱のように、揺るがない人間にすると断言されています。
ここで思い出す言葉は、宮本武蔵の言葉です。
「仏神は貴し 仏神は頼まず」(私は神仏を尊んで拝むが、神仏に頼ることはしない。
最晩年の書「独行道」より)
これを四諦で解釈すれば、
*努力はするが、その結果に執着はしない。
*すべてを諦めた上で、自分ができる最大の努力をして生きる。後は仏に任せ切る。
期待をせず諦めた上で最大の努力をすることは、自我(我良しの思い)から
の妨害を防御する意味でも、自分の自我のムダな漏電を軽減させる意味でも、
非常に有効です。
これは因果論からも最善の結果を呼びやすくなると言えます。
皆様の参考になれば幸いです。
今日も学ばせていただいて有難うございます。
(柔訳 釈尊の教え 第3巻 原始仏典『スッタニパータ』より抜粋転載)
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日本人の道徳心
「恐怖心の克服」
人間は誰でも、心の中に危険を恐れる感じがある。
だから、良いことと知っていても、
危ないことはしたくない。
避難されりょうなことには手を出したくない。
そういう感じで、たいていの人は、
危険を避けて安全な道を歩いて死んでいく。
誰にも偉人となる道はあるのだが、
その才能を発揮できるか否かは、
安全だけを求めないで、
危険に向かって勇往邁進できるかどうかで決まる。
昔の人は、これを勇気といった。
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今日の諺 「終始一貫(しゅうしいっかん)」
【意味】
態度や考え方などが、
最初から最後までずっと変わらないこと。
「終始」は始めから終わりまで続くこと。
「一貫」はつらぬき通すという意味。
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