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1/26(日)「ひたむきで、他人に優しくて、謙虚な人であれ」

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「ひたむきで、他人に優しくて、謙虚なで人であれ」
よき行いに長け、静謐の境地に達した人は、実直で、正しく、言葉優しく、
柔和にして、もっとも大切なことは、人間として非常に謙虚な人物でなければ
ならない。「原始仏典 スッタニパータ第一章第八節134番」
釈尊こそは、コノ世のあらゆる宗教的な苦行を、死ぬ手前までやり切ったが悟れず
「ダメだこりゃ」と諦めて木陰で死を待っていた時に、重労働の運搬をするスジャータ
という女性から「可哀想に」と思われ、お情けの乳粥の施しを受けた時に、悟りに落ちました。
苦行よりも、慈悲の有り難さに真から気付いた時に、悟った訳です。
・ ひたむきで、他人に優しくて、常に微笑む人であり、謙虚で居ること。
これが悟りにも、信心にも重要で有ることがとても良く分かります。
これを人生の中で、自分なりに心掛けるだけでも、人生がよりよく変わって行くことでしょう。
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「私は悟った!」「大宇宙と一つとなった!」「光明や仏を見た!」「神秘なる体験をした!!」
と、自称したところで、それは他人には分からないし、関係ないことです。それが?です。
釈尊は、そんな自称の神秘体験よりも、その人が「人間として」
●ひたむきで、他人に優しくて、常に微笑む人であり、謙虚な人であるか、否か?
これらのことのほうん゛、非常に重要であるし、「仏教の本質はこれだ」とも指摘されています。
社会的にも、バランス感覚のある、常識の在る人物だったことがわかる項です。
そうすると、現代社会にも多い、悟ったと自称して高額な伝授料金を徴収する偉そうな先生ほど、
本物の真理から程遠い人物だと言えます。
・ 悟りよりも、コノ世では大切なことが有る。
・ それは、どんな人も、謙虚であらねば真理から離れること。
非常に単純で明快なことです。逆に言えば、
・ ひたむきで、他人に優しくて、常に微笑む人であり、謙虚な人物。
こういう人の中にこそ、本当に悟った人物が「隠れている」という指摘でもあります。
今の社会の中にも、男女を問わず、このような本物がおられることでしょう。

 

更に言えば、
・ ひたむきで、他人に優しくて、常に微笑む人であり、謙虚で居ること。
これを雑多な厳しい社会の中で、もし自身の求道のテーマとして生きれば、
・ その人は悟る可能性が有り、生きながら深い安心の涅槃に入る神秘体験を垣間見る。
とも、この項は示唆しています。

 

なるほど釈尊こそは、コノ世のあらゆる宗教的な苦行を、死ぬ手前までやり切ったが悟れず。
「ダメだこりゃ」と諦めて木陰で死を待っていた時に、重労働の運搬をする女性から「可哀想に」
と思われて、お情けの乳粥の施しを受けた時に、悟りに落ちました。

 

苦行よりも、慈悲の有り難さに真から気付いた時に、悟った訳です。
・ ひたむきで、他人に優しくて、常に微笑む人であり、謙虚でいること。
これが悟りにも重要で有ることが良く分かります。

 

これを人生の中で、自分なりに心掛けるだけでも、運命が変わることでしょう。

柔訳「釈尊の教え」2巻 原始仏典『スッタニパータ』より抜粋転載

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日本人の道徳心

「信念を持って留まる」

長い人生の間には、

あれかこれかの選択を

しなければならない時が必ずくる。

そんな時、ただズルズルと選択を

曖昧にしたままだとチャンスは訪れない。

幸せはなかなかつかめない。

どちらかに「エイヤッ」と断固として決める。

以前の状態に留まるなら、

留まると決意する。

信念を持って留まれば、

これは積極的な留まり方だ。

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今日の諺 「古色蒼然(こしょくそうぜん)」

【意味】

長い年月がたち、とても古めかしいこと。

「古色」は古くなった色合い、

「蒼然」は古くて色あせているという意味。

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お客様の声

伊勢丹ウォータークリーニング

●ニットのジャケットの襟と袖口が綺麗になって

”新品の様になってます”と喜んで頂きました。

 

 


 


釈尊は超常識論者だった 2018-07-19 11:25:08

 

コノ世で学んだ、一切の宗教的な固有の教義、先入観を捨て去り、

 

ソノ社会の常識という戒律を守り、

 

目覚めの知恵の直感を高め、

 

様々な個人的なワレ良しの欲望からの卒業を果たすこと。

 

そうすれば、コノ世で再び母体に宿る修行からは解放されることでしょう。

 

(原始仏典 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章8節-No.152)

 

(感想)
この項を読みますと、釈尊は自身の教えが後世に「仏教」と呼ばれることや、宗教、教団組織、
と呼ばれることを、認めていなかった可能性がよく分かる内容です。
凄く革新的、革命的な内容であり、インド古来の伝統宗教をも否定しています。
しかも、ただの否定では無くて、アノ世の真相も知った上での発言であることが分かる項です。

 

(1) コノ世で学んだ一切の宗教的な内容は、その国だけ、その地域だけ、
アル特定の時代の個人が言い出した内容が始まりであり、本当に死んだ後の世界には一切通用しないこと。
(2)「ソノ社会の常識という戒律を守ること」
釈尊は、宗教の戒律よりも守るべきは、社会の常識だという目が覚めるような一撃を仰っています。
もうこの一言で、懸命に苦行して来た人はひっくり返るような指摘です。
宗教的な戒律とは、自分が助かりたい一心の、自我のワレ良しに成っていないか冷静な注意が必要です。

 

宗教の戒律ならば、社会常識を無視しても良いなんてことはありません。
やはり社会に迷惑を掛けない常識を守っていないと、宗教の戒律が逆に悪い因果を創ることを釈尊は指摘しています。

 

(3)正しい常識から「来る」直感を高め、
(4)ワレ良しの欲望に成っていないか? 注意すること。

 

果たして、常識という社会修行は、直感をもたらすのか?
これは本当に降ります。しかも、正しく幸福になる方向も、自然と分かり出します。
変な憑依からの直感は、右往左往するだけであり、心身が疲弊して貧乏に成って行きます。
スピ系の色々な引き寄せ術は、逆の「結果」を呼ぶことでしょう。

 

そして、最後に釈尊は、以上を本当に実践して成し遂げれば、
コノ世に転生するという苦行から卒業することが可能に成ると、アノ世を見通した上で発言しています。
この場合は、苦行としての転生のことであり、たまに遊ぶために菩薩として転生して来る善徳巨大ないのちの
転生とは区別します。

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