「拘束・束縛により休日は浄土を感じる」
私、釈尊にとりましては、自分の首に台車に繋ぎ止めるための
木製のクビキを付ける牛の役をするのが、
勇敢に修行への「努力」を継続することなのです。
これは悟りへの過程の中で、一切が静寂に包まれる涅槃(ねはん:浄土)へと誘(いざな)います。
クビキを首に付けて任務を押し進めることは、前へ前へと自分自身を押し上げて行きます。
この継続はもはや、生老病死という人が持つ心配を超えた存在へと、自分自身を至らせるでしょう。
(原始仏典 スッタニパータ 第1章4節-No.79)
人は、自由な環境の中では、その自由の有り難さに本当に「気付ける」のでしょうか?
大半の人間は、「自由であることがアタリマエ」となり、自分が「既に」自由であることに
気付いていないと感じます。
ここに、すべての原点が在ると感じます。これは非常に重要なポイントです。
従って、人間が首に拘束具のクビキを付けるような束縛された日祭日もない企業生活を継続していますと、
休みが取れてクラッシックを聴きに行ったり美術館に行けるひと時が、何と新鮮で有り難いことでしょうか。
まさにその貴重な時間に、涅槃(浄土)を感じます。
だからこそ、思う通りにならないこの娑婆世界に生まれてくるのでしょう。
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何と釈尊は、拘束道具のクビキを首に付けた状態こそが、
* 自分自身を悟りへと導きます。
* コノ世のすべての悩み、生(性)老病死から自分を解放して真に自由にする。
と、この項で示唆されています。
* 不自由な環境こそが、その継続が極まれば、その人を真に自由に至らす。悟らせる。
ということを仰っています。
(中略)
つまり、
* 人は、自由な環境の中では、その自由の有り難さに「気付ける」のでしょうか?
大半の人間は、「自由であることがアタリマエ」となり、自分が「既に」自由であることに気付いていないと感じます。
ここに、すべての原点が在ると感じます。これは非常に重要なポイントです。
* 誰もが「既に」真の幸福状態であるのに、他人との比較心から、自分は不幸だと思い込んでいる。
* 既に在るモノ(肉体・家族・命・・・)の有り難さには気付けずに、無いモノ(他の異性・金銭・・・)ばかりを追い求めて
、自分は不幸だと思い込むこと。
* 人は誰もが「既に」悟っているのに、自分が悟っていることに気付けない。
このような、人が持つサガを感じます。
従って、人間が首に拘束具のクビキを付けるような束縛された企業生活をしていると
休日が何と新鮮で有り難いことでしょうか。
まさにささやかな休日は、涅槃(浄土)を感じます。
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日本人の道徳心
「幸せの灯台」
「運命は人を愚弄する」といったのはヴォルテールだが、
個人の力ではいかんともしがたいような
大きな波にもてあそばれてしまう、
というのが普通の人の人生なのではないだろうか。
多くの人はこの波に抗し切れずに、
波に身を任せてしまう。
そのほうがずっと楽に生きていけそうだからだ
けれども、実際は、次の大波が来たら、
またまたとんでもないところに流されてしまったりする。
人はこうして、あっちへこっちへと行っているうちに、
いつの間にか年を取ってしまう。
そして気がついた時には、
自分の幸せをどこかへ
置き忘れてしまったように思うものなのだ。
これに対して、強い意志で
幸せを求め続けている人は、
どんな波に流されていようとも、
また、どんなに目的から外れているように思えても、
自分の求める幸せの灯を失ってはいない。
あるいはまた、道なき道へと踏み誤っても、
自分の思い描く幸せへの印やマークを
どこかに残しているものなのだ。
この"マーキング"があるがために、
決して目標を見失ったりはしないのである。
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今日の諺
「全知全能(ぜんちぜんのう)」
【意味】
あらゆる事を知っていて、
なんでもできる能力ということ。
神様の力についていうことが多い。
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