「形や名称や組織に執着する愚かさ」
釈尊いわく:
* 私は肉体を清潔に保つことを心掛けます。(農地の整地)
* 話す言葉をつつしみます。(作物への心掛け)
* 食事を節制して過食をいたしません。(肥料の調整)
* 真理を一番大切にする生活を心掛けます。(収穫)
以上をもって、私の心に「雑草」が生えないための、農作業に相当する除草とします。
そして1日の農作業が終わり、牛を台車に繋ぎ止めるための木製のクビキを牛の首から
外す時の解放感は、私の心が涅槃(ねはん:浄土)に入る時の解放感と同じなのです。
だから、私も農夫と同じことを日々にしています。
(原始仏典 スッタニパータ 第1章4節-No.78)
ここで大切なことは、「人は形(組織)や名称にこだわっては生けない」
「こだわれば、真理から遠ざかり執着と成る」という真実です。
これと同様に国家も、形(組織)や名称にこだわり過ぎると、差別が起きて戦争にも成るのです。
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自分の職種は、肩書は、地位は、組織は・・と言いましても、
「人が死ぬこと」「死の前には」そんな名称も肩書も組織も関係が無い訳です。
「死」という真理現象の前では、一斉に平らに均(なら)されます。
どんな仕事でも、役割でも、いのちの視点では形が違うだけであり、本質は同じなのです。
以上の話では、組織同士、民族同士、国家同士でも揉める根本原因を、釈尊は看破されています。
仕事の名称や形に「執着」することで、農夫は釈尊にさえも腹が立つ訳です。
これと同様に国家も、形(組織)や名称にこだわり過ぎると、差別が起きて戦争にも成るのです。
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日本人の道徳心
「小さな恍惚感」
天皇陛下が子供の頃の英語の教師であった
ヴァイニング夫人は、少女の頃、
夕暮れの空を飛んでいく鷺か何かを見た時、
一瞬、その美しさに我を忘れるような体験をした
と書いています。
それで夫人はその後の生活においても、
小さなことにうっとりとする体験をすることに努めたと言います。
大きな喜びで夢中になれるようなことは、
人生において少ないかもしれない、
しかし、人生のあちらこちらで、
小さい恍惚感を味わうことができると彼女は言うのです。
芭蕉に「山路来て 何やらゆかし すみれ草」という句があります。
すみれ草は日頃は目にも留めない草ですが、
それに見とれてしまう。
この時の芭蕉も同じく小さな恍惚の状態と言えるのです。
こういう小恍惚がしばしば起こる時が、
ほんとうの自己が目覚めている時なのです。
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今日の諺
「無理難題(むりなんだい)」
【意味】
むずかしい注文のとき。
実現できないような注文のこと。
かんたんに解決できないような問題のこと。
「難題」とは難しい問題、
言いがかりという意味。
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