「世間より己の価値観に従って生きる」
今の社会の人々は、自分の利益の為に交友を広げ、時には他人に尽くすこともしてしまう。
今どき、利害関係の無い友人とは少ないものだ。
自分だけの利益を追及する人間の様とは、それは醜(みにく)いものだ。
自分の心が醜くなるぐらいならば、
どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。
(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.75)
貧乏で独身の人でも、社会に何か自分が出来る小さな貢献を喜んでする人は、
見えない世界では年収1億円超えの人と同等か、それ以上の価値かも知れません。
人は、消えて行くこの世の姿を見ては、区別したり、差別したり、諦めているだけなのです。
していることが同じ良い事ならば、貧富や職業や立場の差も無い訳です。
誰もが死ぬ時は、自分一人、裸の体1つだけなのです。
この世の表面的な姿に誤魔化され翻弄されては生けません。
今日も、自分の心だけは醜くしないように、人は純粋さや感受性がとても大切なのです。
世間の評価など気にすることなく、良心に沿った芯の在る美しい生き方をしましょう。
自分の心を清浄・正常に保てていれば、あとはすべてがOKです。
どんな状態でこの世を去ろうとも、何が有ってもまったく問題はありません。
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ここで釈尊が問うているのは、心の問題です。
会社の人間関係に疲れて、自分の心が汚れ・疲弊(ひへい:激しく疲れること)するぐらいならば、
組織の中でも自分一人で歩く覚悟を持ちなさいと説いています。
だからと言って、仕事において常識の無い非協力的では、ただの変わり者です。
仕事において常識的な交流・挨拶をしながら、心中はサイに成って独り歩きなサイと言われています。
貧乏でも子供を育てる主婦は、本当は年収が1億を超えたこの世の成功者と同じ人生の勝利者だと。
「人を育てる」という「共通結果」により言えることを、老子は示唆しています。
(老子の言葉「人間は純朴さが大切」)
そこに至るまでの人生の経験の過程が違うだけで、結果は同じことだと言うわけです。
中間過程には大した意味は無いと老子は指摘します。
でも普通の人は、中間過程で苦しみ、心を汚しています。
貧乏で独身の人でも、社会に何か自分が出来る小さな貢献をする人は、
霊的には年収1億超えの人と同等か、それ以上かも知れません。
人は、消えて行く中間過程を見ては、区別したり、差別したり、諦めているだけなのです。
していることが同じ良い事ならば、貧富の差も無い訳です。
町内会のゴミ掃除では、大社長も無職の人も、同じゴミ拾いをしながら世間話をします。
このあたりの話は、もう半分はアノ世の価値観に近いものです。
死後の真実とも言えます。
誰もが死ぬ時は、自分一人、裸の体1つだけなのです。
金持ちだったことも、何の意味も持ちません。
だから老子の指摘は、やはり完璧に正しいと言えます。
人生の中間過程の姿に誤魔化されては生けません。
今日も、自分の心だけは醜くしないように、
社会の汚い仕事も頑張りましょう。
自分の心を清浄・正常に保てれば、あとはすべてがOKなのです。
何が有っても問題はありません。
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日本人の道徳心
「時間を守る工夫②」
私が感心したのはオックスフォード大学の習慣です。
カレッジにいる先生方が
必ず出てこなければならない時間を決めているのです。
それは朝の十時のお茶の時間と夕飯の時間です。
そのときは、勉強の最中でも
それをやめて出てこなくてはならない。
そして、その時間を利用して打ち合わせをしたり、
連絡事項の確認をしたりするのです。
そのかわり、あとの時間は部屋にこもりっきりで
勉強をしていても構わないというわけです。
これも自分の時間を守るための工夫といえるでしょう。
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今日の諺 「刻一刻(こくいっこく)」
【意味】
時間が過ぎるとき。
だんだんと時間が経過していく様子。
しだいしだいに。
「刻」は時間を表す。
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