「すべてはあいさつから始まる」
自分の過去の人生の
生き方を正しく認識して、
また、浄土と地獄をも体験し、
すべてへの執着を滅するに至り、
直感力を完成させた聖なる人。
自分がするべきことを全て終えた人。
そういう人を私・釈尊は、
最高の人間とします。
(原始仏典
ダンマパダ26章-423 最終項)
(感想)
この項が、
「原始仏典 ダンマパダ」の最後です
全体を通して改めて思いますことは、
釈尊は難しいことは何も仰って
いなかったということです。
人の生活を中心に置いた内容であり、
誰もが知っておくべき「生き方の知恵」
を集大成したものでした。
これは現代社会における会社員、
主婦、学生たち、経営者が知っておく
べき内容です。
貴重な人生を「生き切る」ための方法が
随所に見られます。
2500年も前の人の生活も、
今の時代の生活も、人が悩むポイントは
まったく同じであり喜怒哀楽に変わりが
ありませんでした。
この項では、
(1) 自分の過去を正しく認識すること。
(2) 浄土も地獄も経験したことがムダでは無い。
(3) ワレヨシな欲望・拘りという自我の執着を無くすこと。
(4) 正しい直感力を身につけること。
(5) 自分がするべきことを、
やり切ったと真から自分で思える人。
というのが人の理想の生き方の姿だと
釈尊は示されています。
最終項にふさわしい御言葉です。
(1)は、自分の過去の生き方の善悪を正しく
自分で評価できる人は少ないということです。
自分は正しいと思う生き方でも、
それは自我(ワレヨシ)の思い
だったかも知れません。
公平に自分の人生を評価して見ることに成る機会は、
死後に誰にも訪れます。
その時には、良心が全方位から撮影された
3D画像を音声も含めて
自分に見せてくれます。
死後のいのちは、
一切の弁解をする気も失せるほどの
正しい真実を目撃することになります。
(2)は、どんな苦労も大切で必要な経験
に成るということです。
コノ世にムダなことは一切無いのです。
しかし、自分は苦労知らずで生きたから
心配だと思える幸福な人もいるかも
知れません。
でも心配は不要です。
どんな人生であっても地獄を既に経験し
ており、その程度の差はあっても
「コノ世で生きることが地獄を乗り
越えたこと」に成ります。
コノ世とはそういう厳しい次元です。
フィリピンのゴミの山に暮らす子供たちは、
大人が見れば地獄に暮らしていますが、
なぜか子供たちはその中でも笑顔でいます。
他の生活を生まれながらに知らないからです。
私たちも、本当は誰もが地獄の中に住んで
いるのがコノ世でもあるのです。
その中であっても、浄土を自分で見ることが
大切な人生の目的なのです。
自分次第です。
そうしますと、
(1)(2)(3)を正しく成し遂げますと、
(4)の直感力が誰にも身に付くのです。
何が良いか?正しいのか?ナントナク自分で
理由無しで分かります。
皆さんが、
このブログを自分で選んで読むのも直感力が
させています。
(これを手前味噌という、笑)
釈尊は、正しい生活は直感力をもたらすと
示されています。
そして(5)の、
「自分はやるべきことをやり切った!」と
「自分で思える」生き方が人として
最高の人生なのです。
悔いが残らない人生とは、
なかなか難しいことです。
でも、まだ生きているのですから、
これから死ぬまで上書き修正をして
頑張る気持ちであれば、苦労の多い人ほど、
「もう十分に生きた」「やり切った」
「このへんで良か」
と人は真から自分で思えるのです。
他人の評価などは一切関係無いのです。
たとえ他人から見て不幸でありましても、
真から笑顔でアノ世の浄土に
誰もが行くことは可能です。
仏さまと共に
安心の世界を生きていきましょう。
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