地上に生きる人々、天空に住まう精霊たち、
神々であれ、人であれ、
同じ場所に存在するという縁の奇跡を尊重して、
神々も精霊も人も、平等に礼拝します。
そして、すでに存在する、
すべてのことに共通している
普遍的な真理を尊重します。
この真理の言葉で、幸せになれます。
[原始仏典『スッタニパータ』
第二章第一節-二百三十七番]
「すでに存在する、すべてのことに
共通している普遍的な真理を尊重すること」
この一文を読んで思い出すことは、
禅の永平寺を開いた道元禅師の言葉です。
一二二三年、道元禅師は二十四歳の時に中国(宋)へと、
禅の原点を学ぶために海外留学をされました。
そして、天童如浄(てんどうにょじょう)の下で
修行を重ねた結果、
一二二五年に師の「身心脱落(しんしんだつらく)」
の言葉から、コノ世のすべてを悟られました。
それから二年後、道元さんが二十八歳の時に
日本へ帰国されました。
道元禅師は、帰国した後の思いを
『永平広録』に記されています。
*たまたま偶然の縁で、
本物の禅の師に出会うことができた。
*そして修行を重ねて、
真から腑に落ちた悟りとは、
目は横に並び、鼻は縦に、
顔に付いているということだった。
*この当たり前なことを再発見した御蔭で、
もう他人の言葉にも、物にも惑わされることは無い。
だから私は、何も持たずに日本へ帰国した。
*思い返せば、遠い異国の国に、
仏法と呼ぶような教えが
「これだ」とあるわけでは無かった。
ただしばらく、留学の時間を過ごしただけだった。
*私が学んだことは、わざわざ命懸けで
遠い国で悟ったこととは、
太陽は朝に東から昇り、
夜には西に沈んで行く、ということだった。
以上のような内容を、道元禅師は述懐されています。
道元さんが落ちた悟りの中身は、
●目は横に並び、鼻は縦に、顔に付いている。
●太陽は朝に東から昇り、夜には西に沈んで行く。
この再発見に、道元さんは感動に
打ち震えたと書いておられます。
「えっ?バカにするな〜〜い!」
「えっ?当たり前だろっ!」
そう思うことでしょう。
でも、なんと釈尊が言われた内容と同じなのです。
それが、この項の、「すでに存在する、
すべてのことに共通している普遍的な真理を尊重すること」、
これと一致します。
つまり人間とは、何か思い通りにならないことがありますと、
すべてに曲解を始めます。
楽そうな裏を探し始めます。
すると、大切なことからドンドン離れて行くのです。
悟りも同じなのです。
修行しても、悟れない・何もわからない・
変われないものなのです。
すると、どんどん奇異なことを求め始めます。
最終的には、真の悟りから遠く離れた
金儲けのナリワイをする人が多いです。
家庭の主婦も、お金がないからと言って、
「家族のために」と夜のお酒の世界で働き始めれば、
どうなるパターンが読めますか?
お金で誘惑する様々な好色男が客として来ます。
一年後には、その大切な家庭自体が
壊れているかも知れません。
何のための深夜労働だったのか?
どんなに貧乏でも、母親と過ごすほうが
子どもには嬉しかったのに。
すでにある家庭を大切にすることです。
道元さんの話から、
*悟りを求めないことが、悟りだった。
*当たり前なことを、心から大切にすること。
釈尊からも、
*すでに存在する、すべてのことに
共通している普遍的な真理を尊重するこ
*すでにある物事こそを、大切にすること。
このような視点を常に忘れずに、
自分の生活の中の物事を
見ていっていただければ幸いです。
「柔訳 釈尊の教え 第三巻」
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