では、よく聞いて欲しい。
私、釈尊の言葉を。
生きる人も、すべての神々も、
苦しみ、あえぐ人々を見れば、
同情をして欲しい。
苦しむ人々は、
他の人々や精霊に対して、
「何らかの供物」を
捧げる人だと言えるからです。
これを見落とさずに、
温かく見守ってあげて欲しい。
[原始仏典『スッタニパータ』
第二章第一節-二百二十三番]
釈尊の重要な観念の一つが、
「天上天下唯我独尊」です。
*人類は全体で「一人」である。
*他人=自分自身、である。
つまり、苦しむ人を見かければ、
*それは他人ではない。
*過去か未来のいつかの自分の姿である。
*だから、心中だけでも良いから、
同情をしてあげて欲しい。
こういうことを、
生きる人々にも、神々にも、
釈尊が提示しています。
すべては一つ、
という釈尊の心境では、
神々も上とか下とかではなくて、
同じ一つなる存在だったのです。
そして、次に釈尊の重要な指摘は、
*苦しむ人々は、
他の人々や精霊に対して、
「何らかの供物」を捧げる人だと言える。
これは、釈尊がもの凄く
霊的な真理を述べています。
どうしようもない
ダメな状態の人が、
何らかの事情でおられるものです。
普通の安定した
生活をする人から見れば、
そういう人たちに表面では
同情したとしても、
「私とは違う」
「どうして、そういう人が存在するのかな」
と内心では思ったりするかも知れません。
または自分の家族に、
どうしようもない人がいれば、
「もういなくなって欲しい」
「あなたは何のために生きているの?
なぜ、ここにいるの?」
と思うこともあるかも知れません。
でも釈尊は、苦しんでいる人や、
どうしようもないダメな人も、
*あなたの代わりに、
何かの苦労を背負って
くれている人かも知れない。
*家族に、供物(家系の因果の昇華)を
もたらしてくれている。
*周囲に「こうなってはいけないよ」
という姿を反面教師として
見せてくれている。
という示唆をされています。
これは、まさに因果論の視点では
言えることなのです。
昔の人は、「袖すり合うも他生の縁」
と言ったものです。
他人と服が触れ合う距離になるのも、
前世からの深い因縁があってこそ、
そうなれるという意味の言葉です。
*他人との縁は、
すべて単なる偶然ではなく、
深い因縁によって起こるものなのです。
つまり、コノ世には
偶然というものは一切ありません。
すべては自分自身が持つ
縁の上でのことなのです。
だから、ダメな他人と
出会ってしまうことも、
自分自身の問題でもあるのです。
このような視点を見落とさずに、
どんな他人も、
温かく見守ることができる
自分でありたいものです。
「柔訳 釈尊の教え 第三巻」
・・・・・・・・・・・・・・・