コノ世のすべての事柄を
正しく見抜き、その本質を
知る叡智を持つ人は、
幾度もの生まれ変わりの
荒波の試練を乗り越えて、
いかなる存在の影響も受けることなく、
そして、すべての物事への
執着を持たないならば、
自我が持つ欲望から
解放された自由な人です。
このような人こそは、
黙っていても聖者だと、
真の叡智を持つ人々からはわかるのです。
[原始仏典『スッタニパータ』
第一章第十二節-二百十一番]
事柄を正しく見抜くこと。
例えば一つのニュースを見ましても、
・その報道の通りに受け取り、
忘れ去っていく人。
・その報道の隠れた側面を感じ取り、
本当の大問題に気づける人。
同じ報道を見ましても、
その解釈に個人差が出るものです。
これは、自分には
学がないからわからない、
とかいう問題ではないのです。
幼い子どもは、
真の悪人を見抜くものです。
笑顔の着飾った悪人が
近づいて来ましても、
「ギャー!怖いよー」「イヤ〜〜」
などと言って騒ぐ子どもがいます。
知識も先入観もなしに、
キレイに着飾った大人の
本質を見抜く子どもがいるものです。
もし人が、
「正しく見抜く、
物事の本質を見る視点」
が持てれば、仕事も、結婚も、
交友も、投資にも間違うことがなく、
詐欺も見抜くことでしょう。
・物事の本質を見抜ける能力。
・物事の隠れた側面に気づける視点。
こういうものを持つ人は、
何回生まれ変わっても、
どんな荒波の人生でも、
何者にも害されることなく
人生を乗り越えられると
指摘されています。
では、このような能力は、
どうすれば持てるのでしょうか?
*子どものような、素直な目を持つこと。
*中道、中立の視点から物事を見る習慣。
*その本質を見たいと、
何事にも意識して向き合うこと。
このような習慣が大切だと私は感じます。
これは別に、他人や、物事を
疑って見るということではありません。
もし対人の場合ならば、
・その相手の本質を、
わかってあげたい。
・相手の本音を理解したい。
という善意から入って見る視点を
自分が意識しますと、
・「あれ?何か変だなあ」という違和感。
・何か隠しているっぽいぞ。
このように自分が素直な中立だと、
もし問題が隠れていれば、
相手の本質を感じ取れるかも知れません。
でも普通は、
「相手の本質をわかってあげたい」
などいちいち意識しませんから、
見逃すことになります。
自分が「物事の本質を知りたい」
と常に意識することは、
隠れた側面に気づける
ヒントになることでしょう。
しかし、物事の本質を
見抜ける人になったとしても、
まだ真の自由人にはなれないのです。
項の後半で指摘されていることが、
物事への執着を持たないこと。
これを達成していませんと、
真相を見抜ける人になっても、
ただの抜け目がない人に終わって
因果を増やす人になるかも知れません。
そして、物事の本質を見抜ける人。
物事への執着を持たない人。
もし、このような人になれた場合、
黙っていても賢い人が見れば、
聖者だとわかると
文章が締めくくられています。
そういう空気感が
出ている人だというととです。
まずは、縁ある他人の、
*本質をわかってあげたい。
*相手の本音を思いやって理解したい。
という視点を持つことからを
参考にしていただければ幸いです。
こういう視点は、
相手の立場や状況も理解し、
他人への思いやりを育てることでしょう。
「柔訳 釈尊の教え 第三巻」
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