鬼神からの、「どうすれば人間は救われるのか?」
「それは無理なのではないか?」
という問いかけに対する
釈尊の返答が終わりました。
釈尊の返答をすべて聞き終えた
人食い鬼神が、感想を述べます。
鬼神が謹んで申し上げます。
「私はもう、人間の修行者たちに
質問を投げかけることはないであろう。
私は釈尊との問答によって、
コノ世と来生で
悲嘆することがなくなる真理を知りました」
[原始仏典『スッタニパータ』
第一章第十節ー百九十番]
「私のような存在を救うためにも、
完全なる仏陀(最高の境地に目覚めた人)が
この街に来てくれたのだろう。
私は今、どんな分野に善徳の種をまけば、
大きな果実を得られるのかを理解しました」
[原始仏典『スッタニパータ』
第一章第十節-百九十一番]
「私は、村から村へと、街から街へと、
完全に悟った釈尊の足跡を
礼拝しながら巡ってみたい」
[原始仏典『スッタニパータ』
第一章第十節-百九十二番]
これをもって、第一章十節
「釈尊と人食い鬼神との問答」が終わります。
この項の要点は、鬼神が言った、
「どんな分野に善徳の種をまけば、
大きな果実を得られるのかを理解しました」です。
つまり、釈尊の話には、
善徳貯金を積むべき方向性・分野を
示す内容があったということです。
これを逆に言えば、
コノ世には自分が善行をしたつもりでも、
アノ世からは評価されない
分野と内容があるとも言えるわけです。
試験勉強を一生懸命にしていましても、
勉強する分野と範囲を間違えていれば、
まったく得点はできないことでしょう。
こういう勘違いを、
人間は人生でしているものです。
では、鬼神が思い知った、
「どんな分野に善徳の種をまけば、
大きな果実を得られるのか」とは、
どんな内容なのでしょうか?
それが、百八十八番「人生の配分」に
集約されています。
(1)信心深い人であり、
(2)誠実な人であり、
(3)仏教の真理を素直に聞く人であり、
(4)何事にも、じっと我慢ができる人であり、
(5)他人に物を上げることを心から喜んでする人。
この五つに注意していれば、
今生と来生を改善させる大きな善徳となり、
来生に自分が生まれ出る
環境と条件も最善になるという示唆です。
私は特に、(2)(4)(5)が、宗教に関係なく、
万国に共通して大切に感じます。
(1)(3)は疑問です。間違った信仰も多いからです。
無信仰の人にも、多くの善徳者がおられます。
特に(3)は、後世の加筆でしょう。
釈尊が言いそうにもないことです。
釈尊は、仏教という縛りも嫌う御方です。
宇宙が、すべてのテーマでした。
心配なことは、現代人には(4)の我慢が欠けていく
教育や制度が多いことです。
子どもに我慢することの大切さを教えずにいますと、
社会で苦労するのは子どもです。
我慢を知らない子どもを育てた親も、
大変な苦労をすることでしょう。
金がなくても、欲しい物が
我慢できない人間とは恐ろしいものです。
一家の破産や崩壊を招きます。
そして、我慢を知らない者同士が集まった社会とは、
お互いに権利だけを主張して、
とても冷酷で厳しいものになるのは
想像すればわかります。
慈悲や情けのない社会が到来します。
私は、(2)の誠実さこそが、
神様にも通じる思いだと感じます。
神道の神事の要は、
*神様に誠実性を自己表現する
行為・所作なのです。
*誠実な思いこそが、
神様にもっとも通じやすい思い方です。
誠実な人間は、貧乏な環境でも輝いて視えます。
顔が光っています。
裕福になるほど、誠実性が消えて行く人を見かけます。
もし誠実で腰の低い大富豪がおられれば、
それは素敵な悟った御方でしょう。
誠実で、我慢もできる人であり、
他人にモノを喜んで上げる人は、
本当に素敵な人です。
その人間の富裕・貧乏に関係なく、
こういう人を参考にしたいものです。
「柔訳 釈尊の教え 第三巻」
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お客様の声
全国宅配
★60代・男性
もう着られない、と思っていたのですが、
綺麗にシミ抜きをしていただき、生地も
新品の様に甦らせて頂き有難うございま
した。