誰もが今の中で生活しながら、気持ちが他の時間
に飛んでしまっています。「心あらず」で隙が出
来て色々な妄想に、心の漏電から心身が病気にな
ったりもします。今の中に生きることができれば
「進行形の法則」に乗ることが可能になり、その
人の心は永遠性の中でよりよく生き続けます。
不運の正体は、違う時間軸に飛ばしていた自分の
自我、願望が、逆にブレーキをかけていたことだ
ったのです。
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釈尊が、鍛冶職人のチュンダの質問、
「コノ世には、どんな種類の修行者が
存在するのですか?」に答えます。
「チュンダさん、コノ世には
四種類の修行者が存在します。
いつの時代にも共通することは、
その人物が、
*思いやりのある人か?
*節制した真面目な生活をしている人か?
*無償で愛情深い行動をしている人か?
*何の収入で生活をする人なのか?
このような視点で相手を見れば、
冷静な判断ができると思います。
「原始仏典『スッタニパータ』
第一章 第五節-八十四番]
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「チュンダさん、コノ世には
四種類の修行者が存在します。
五種類目の修行者は存在しません。
あなたに真正面から
問われたことに返答をいたします。
第一の修行者は、
コノ世のすべての我欲に打ち勝った人。
第二の修行者は、
修行方法を無償で説明・解説する人。
第三の修行者は、
修行方法に従って生活する人。
第四の修行者は、
修行方法を教えることを悪用し、
修行という名の下に
悪事(金儲け・性交・社会悪)をおこなう人。
以上の四種類の修行者が
コノ世に存在します」
「原始仏典『スッタニパータ』
第一章 第五節-八十四番]
驚くべきことは、
釈尊が示された修行者の四種類の分類は、
二千五百年を経た今の世でも
まったく同じだということです。
特に「第四の修行者」が存在することが
二千五百年も前から
継続しているということは、
これは「修行」「信仰」「宗教」
という名の下に必ず生じる
人類の性(サガ)だと言えそうです。
問題は、同じ修行者という
名称のククリの中に、
すべてを乗り越えた
聖なる「第一の修行者」も
存在することです。
事情をよく知らない一般人は、
本当に素晴らしい人物が
修行者という名称の中に
いることを知りますと、
その他の修行者も同様だと
思い込んでしまうかも知れません
でも現実には、悪い
「第四の修行者」が混在しているわけです。
これからも人類は、
人物を表す「名称」「肩書」だけを
見て判断してはいけないということです。
一流企業の中にも、教師の中にも、
医師の中にも、罪を犯す人がいます。
では、肩書を信用しては
いけないと言われますと、
私たちは何を見て人物を
判断すればよいのでしょうか?
いつの時代にも共通することは、
その人物が、
*思いやりのある人か?
*節制した真面目な生活をしている人か?
*無償で愛情深い行動をしている人か?
*何の収入で生活をする人なのか?
このような視点で相手を見れば、
冷静な判断ができると思います。
例えば、他人に悟りを
教える・悟りに導くと自称して、
豪邸に住んで、異性との交友が
乱れた生活をしている人は、
それは明らかに間違った
「悟り」を教えている人です。
悟りをも金銭に変える時点で、
最初から道から外れています。
魔境の悟りを教える人です。
末法(正しい教えが消えて
破滅に向かう世紀)の世では、
どんな肩書も信用ができません。
どんな中にも変な人がいます。
ただ、この項の興味深い視点は、
釈尊がわざわざ
「五種類目の修行者は存在しません」
と言い切っていることです。
これは人類が、どんな分野でも、
どんな業種でも、国家でさえも、
「四種類に分類ができる」
とも言えそうです。
今の自分は、
「何種類目の自分が出ているのか?」
と思い直すことで、
人生の軌道修正ができるかも知れません。
自分は「変わる」ことができる、
ということを信じて、
今の世を自分なりに生きましょう。
自分なりに歩んで行きましょう。
「柔訳 釈尊の教え 第ニ巻」
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