目の視線は常に静かにして、
斜め下方を見て虫を踏むことなく歩き、
常に斜め下方の視線で座ること。
大勢の人がいる喧騒を好んで、
あちらこちらへと歩き回らないこと。
他からの刺激に心が乱されることがないように、
自分の心が防御されている姿勢で常にいること。
自分の自我(ワレヨシな怒り・好み・
嫉妬・色情・欲⋯⋯)が他人に出ないように
自分でコントロールしていること。
他人の自我の影響も受け取らない心境でいること。
どんな交わり、集団の中に自分がいましても、
自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで一本角が立つサイのように
一人で歩みなさい。
[原始仏典『スッタニパータ』
第一章第三節-六十三番]
これをただ読みますと、
「釈尊が堅苦しい生き方、
つまらん生活を勧めているぞ」と
思われるかも知れません。
でもまさにこれこそは、
現代社会で精神を病まないための
最高の極意を釈尊が教えてくれています。
未来社会に、心身を病む人が
増加することを予見していたかのような
最高の教えです。
この項の中には、
*禅の極意
*仏像の視線の意味
*生活の中での立ち振る舞い
*精神を病まない生活方法
これらが凝縮されています。
(1)視線は、常に斜め下方でいることがよいです。
これこそは、禅の視線であり、
仏像が表現する視線であり、
最高の集中力を生み、
他からの霊的な憑依を
防御する視線なのです。
でもこれは、自分一人でいる時だけにしましょう。
学校や職場では、
正面を大きく見て、相手に不快な思いを
させないようにしてください。
*霊の憑依は目からも入る。
ということを知っておいてください。
異性からの色情のスケベな火も、
目から入るので女性は注意しましょう(笑)。
斜め下方の視線では、
まず霊の侵入は目からは難しくなるのです。
ただ、この姿勢は首の後ろが開いて
無防備になります。
そこで禅では、背中を棒で叩き
祓う警策(きょうさく)を経験的な
感覚から実践されています。
これを釈尊が述べていたことを
知る人は少ないです。
後世に生まれた所作・視線だと思うものです。
釈尊は禅定(ぜんじょう:心の活動が一切停止すること)
に入られますと、
丸一日でも半眼のままの御方でした。
排尿も、脈拍も、呼吸もすべての活動が
冬眠状態のように限りなく弱くなります。
現代医学の医師が瞳孔を確認すれば、
非常に危険な状態の判定が出されるかも知れません。
(2)自分が他人の心を乱さない
姿勢・生活を心がけて、
自分も他人の所作・行動に心が
乱されないように注意していれば
大丈夫だということ。
このことを現代人がわざわざ意識をしていないと、
*自分の心が他人の所作をいちいち気にする。
*自分も他人に不快な態度を無意識にしている。
ことになりがちです。
自分で常に、
「他からの影響を自分は受けない、
受け取らない」ということを
日々の生活の中で
自分自身に言い聞かせていきます。
これを意識するかしないかで、
やはり人の精神状態は変わっていくのです。
人間の心は生き物なのですが、
表層意識はかなり機械的な反応を示し、
意識のプログラミング注入が
機能すると思ってください。
これを悪用したのが洗脳です。
つまり自分の意識に言い聞かせることは
機能する・有効だという証拠です。
やはり人は、知人を選び、読む本を選択し、
見る物事、テレビ番組、聴く音楽も
選択する必要がありそうです。
視線にしましても、
「そんなことぐらい」が
想像以上に人には影響しています。
テレビ・映画などの映像で
問題視されるサブリミナル効果
(意識的に隠されている見えないはずの画像が
無意識下に入ること)がこれを証明しています。
絵画にしても、下地に塗り隠した
呪詛の絵が機能することを使い、
他人を貶めるための権謀術数(けんぼうじゅっすう)
が古来から存在します。
例えば、天才レオナルド・ダ・ヴィンチが
下絵に隠している図柄は、
表面に描いた絵とはまったく異なることが多いようです。
この項の主旨は、
常に自分の心の安定化に注意して、
輪廻(生まれ変わりの循環)から
自由になりましょうということです。
この項の注意点も知っておき、
自分の心の安定化を図って
コノ世を楽しみましょう。
「柔訳 釈尊の教え 第一巻」
著:伊勢白山道より転載
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