人間は冷静に自分の生活や仕事を高所から見る視点を持つと、同じようなパータンで他人ともめたり、思い込みで自分の正しさを押し付けたり、人からの苦言を聞く耳を持たなかったり、成功体験をしたり、とにかく喜怒哀楽を繰返して生きていることが分かります。
毎回同じパータンを何百回も繰り返せば、「あれ?私は同じことを繰り返しているだけ?」と人は気づけるのでしょうか?
その答えは「N0」なのです。
自分を常に高所から見る視点を持てない人は、自分が何度も同じことを「繰り返しているだけ」ということがまったく分からないのです。
これは生死をまたいだ転生にも言えることであり、何度も似たようなパータンの転生を人は繰り返している最中なのです。
お釈迦様はこれを「恐ろしいことだ」と、指摘してされています。
これと同じことを、空海さんはもっとはっきりと表現されています。
三界の狂人は狂せることを知らず(いろいろの世界において、狂える人は自分が狂っていることを知らない)
四生の盲者は盲なることを識らず(真実を見ることができない生きとし生ける者は、自分が何も見えていない者であることがわからない)
生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く(何度も生を繰返しながら、生の始まりさえわかっていない)
死に死に死に死んで死の終わりに冥し(何度も死を繰り返しながら、死の終わりを知らない)
「秘蔵宝鑰」序論より
なんと、同じことを繰返す人の事を空海さんは狂人だと指摘されています。これは空海さんからの愛情からの厳しい言葉なのです。「頼むから世間の人よ、気づいてくれよ」という。
この悪しきクセを繰返すパータンが、世界情勢や組織、個人の人生にも起こっており、来世も繰り返すのです。
これを脱却するためには、この繰り返す悪しきパターンに気づくということなのです。
自身で気づけない場合は、本当に心から信頼できる人に指摘してもらうことをお願いしておくことです。
そうでないと、少々意識していたぐらいでは気づけないです。気の遠くなるように久遠の昔からやり続けてきた悪しきクセパータンでしょうから。
仏教の基本はこの悪しきクセパターンに「気づく」「目覚める」ことにあります。
なかなか遠い前の世から続くこの「悪しきクセパターン」を消し去ることはできません。ただ、「また同じようなことをやろうとしている」「このことによってどれほど人に迷惑をかけてきたのか」と自覚できたり、意識していたりすると少しは自制できるかもしれません。
ただ、正直言ってそれは高所の視点を持たない限り「アリの目」で目の前のことしか分からない私たちにはとても難しいことであるのです。
私が実践していることは、耳の痛い言葉を聞くということ。
耳が痛いほどそれは当たっているわけで、そこから逃げたらいかんのです。
いや、「言ってもらえる」ことに心からの感謝があれば耳の痛い内容もやがて自身の中から昇華されていくのです。