「人間として 人間らしく素直に生きる」
聡明な修行者は、仏陀の教えを聴き、これが叡智のある
真実の内容であることがわかり、このことを完全に了解
する。それは、真実をあるがままに素直に見るからであ
る。
(原始仏典「スッタニパータ」第一章第十一節-二百二番)
本当にそれが真理の話ならば、「学問を知らない人でも
心から頷き腑に落ちる」「真実の内容だと、なぜか分かる」。
こういうことがあると、釈尊はこの項で指摘されています。
机上の学問ではなく、「自分の人生経験から」真理も自然と分かる、
理解できるということなのです。
また、
・本当に正しいことは、学ばなくても、分かる人はいる。
・本当に正しいことを、学んでも分からない人もいる。
・自分の心境や意識によって、理解する内容と段階が変わって
いくのが人生でもある。
「真実をあるがままに素直に見ることができる人には、これが可能だ」と。
では「あるがままに素直に見る」とは何か?
多くの人は、自我(自分本位で、自分の思い込み、先入観が中心
の視点)を通した目で、すべての物事を見て、理解しようとします。
そもそもが、この時点ですでに、自分が理解できる範囲の視点し
か持っていません。自分の視点意外に真理があれば、理解、認識
できないのは当然なのです。
そこで、自我を通した視点が薄まっていけば、どうなるのでしょうか?
・自我が薄まるほど、あるがままに素直な自分の心で、物事が見
え始める。
・自我が薄まるほど、真理の話に出会えば、理解をし始める。
では、自我を薄めるためにはどうすればいいのでしょうか?
仏教や真理の勉強をしても、自我は薄まりません。人生の中で喜怒
哀楽を繰り返しながら、その人の本性が素直で純粋な方向に向けば、
自我は薄まっていきます。
逆に、喜怒哀楽を通して、それに居直ったり、執着したりすると、
自我の自分を強固に正当化して、余計に自我を瘡蓋のように上書き
で固める人も多いいのです。
ここで、個人の人生が大きく分かれていきます。
別に真理が理解ではなくても生きていけると思う人も、多いと思い
ます。確かにその通りです。
そうですが、ただ、自我が強まるほど、
・少しの事でも、過剰にストレスに感じ苛立つ。
・自分の正しさが強く、怒りに支配されやすい。
・人生が楽しくない。生きるのが苦痛。責任転換が多い。
・必然的にネガティブな発想になってしまい、病気がち。
という重い人生になりがちなのです。
そこで、素直な心にな成れば、健康にも良く、自然と真理も認識
でき、直感と閃きも強く成る、ということです。
何も飾ることなく人間らしくありのまま生きるためには、素直と
感謝はとてもお徳(得)です。
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日本人の道徳心
「男の歩み」
私の体験からも言えるが、
男というのは、いろんな面で、
非常にゆっくり成長するものだ。
だから、同じ年頃で、
女の子の方が利口だったり
世間知があるからといって、
劣等感を持つ必要はまったくない。
ゆっくりだけど着実に伸び続ける。
男盛りと言って
五十歳前後になってから、
やっと男としての張りが出る。
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今日の諺
「一世一代(いっせいいちだい)」
【意味】
一生に一度だけの大切なこと。
「一世」も「一代」も、
一生(生まれてから死ぬまで)という意味。
【由来】
歌舞伎役者などの舞台役者が引退するときに、
もっとも得意な芸を披露することをいうことから。
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