「人生を大きな命が支えている」
鍛冶屋職人のチュンダが釈尊に質問します。
「正しく完全に悟った知恵の仏陀(ブッダ)であり、
すべての真理に通じる御方であり、
世間で有名に成りたいと思う深層心理が消えた御方であり、
人間としても人類で最上の人であると思われる、あなたに質問を致します。
コノ世には、どんな種類の修行者が存在するのですか?どうぞ教えてください」
(原始仏典 釈尊の言葉 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章5節-No.83)
鈴木大拙(すずき・だいせつ1870年―1966年)先生 は、
日本とアメリカを行き来して、日本の禅を世界的に広めた大人物です。
また、浄土真宗の門徒である浅原浅原才市をはじめとする妙好人の言行を思想化・体系化し、
初めて海外に紹介しました。
その鈴木大拙先生いわく、
「悟りとは、人間の中に神が入り来たりて、そこで神自身が自己を意識することが悟りである。
この意識は、すべての人間の意識の底に絶えず存在する、超意識とも称する意識である。」
浄土真宗の元龍谷大学の信楽峻麿先生も、「み佛は人のいのちの奥深く、来たり宿りて今日もまた
南無阿弥陀仏と喚びたまう」と仰られています。
実は「悟りとは、人間の中に神(佛が入り来たりて~」の部分は、どこか他所から神や佛か「来る」
のでは無くて、「人間の意識の底に絶えず存在する」ということなのです。
「既に存在している」「人間は安心の真っ只中にあり、もう仏に救われている」ということです。
生きる自分と絶対に切り離すことが不可能な、不二(ふじ)な存在が神・佛(超意識・仏性)なのです。
つまり、悟るとはその真実に深く気づき、目覚め、どんな喜怒哀楽にも感謝が出来て「楽しむ」という
ことです。「悟り」、「信心」とは、大きな絶対安心の命に生かされ生きている心の安心状態のことです。
ただ、「悟りました!」「信心を獲ました」・・・それは良かったね。では、これから何するの? どう生きるの?
ということなのです。私や寺族、そして門信徒の皆さんは「浄土真宗の生活信条」生きる指針としています。
と共に、企業のスタッフたちとは釈尊の「ダンマパダ」や「スッタニパータ」等に学び、真理に沿った「考え方」、
具体的で利他的な「行動パターン」「人生習慣」を仕事を通して身に付ける努力をしています。
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まず、驚きますことは、
この鍛冶屋職人が非常に博学(はくがく:深い知識を持つこと)なことです。
最初の4行は、釈尊を賛辞する言葉なのですが、知識の無い普通の職人がこんな表現が出来ることではありません。
自分自身で悟りを経験した結果、コノ世のすべての「要点」を自然と知った叡智を感じさせます。
(1) 「悟り」という言葉は、その経験を知らなくても誰でも何となく使用は可能です。
でもここで鍛冶屋職人は、「知恵の」という、色々な悟りの段階が有る中でも、
最高の境涯の悟りを指定しています。
なぜ職人は、指定が出来るのでしょうか?
(2) 正しく悟れば、他人から習わなくても、コノ世と宇宙に既に在る法則(真理)が
自然と視え出す・分かる、ことに成ります。
釈尊に会って、あなたは「すべての真理に通じる御方である」、と鍛冶屋職人が断言しています。
鍛冶屋職人には、釈尊がそういう御方だと分かった訳です。
普通の人が釈尊に会いましても、背が高くてハンサムだと思えても、ボロを着たただのオッサンに
見えたことでしょう。
(3)「世間で有名に成りたいと思う深層心理が消えた御方である」
釈尊を見て、鍛冶屋職人はこう指摘しています。
釈尊の内面・その到達した境涯が、職人には分かったようです。
これは老子も同じことを言っています。
「世間に顔が知られるようになれば、それはニセモノだ」
と当時の有名な精神的な指導者たちを評しています。
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