「与える行為も、相手を良く見てから」
釈尊は続けて農夫に言います。
「節制した偉大な仙人のように真面目に生きる人物、
ワレヨシな性(サガ)を完全に滅したような本当に清らかな人、
もし、このような人物と出会ったならば、新しい飲食物を出来るだけ提供したほうが良いですよ。
本当に良い人物に物を上げる行為こそは、大きな幸運・財産を生み出す田畑に種を蒔くに等しいからです」
(原始仏典 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章4節-No.82)
釈尊は、この項でわざわざ提供するに値する人物の条件を指定しています。
これは逆に言えば、
* 陰では真面目に生きていない悪人 * ワレヨシな人物
このような相手には、「物を上げては生けない」という示唆でも有る訳です。
悪徳な人にモノを上げれば、それが善意からでも、自分に悪い因果を積むことに成る訳です。
後からも良いことが有りません。自分の幸運を失くしてしまうことを自覚しておきましょう。
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この項では釈尊も、
* よく節制して生きる真面目な大仙人のような人物
* 本当に心が清く、相手のことを大切にしたいと思える人
このような人物と出会う縁を持てたならば、大いにモノを上げなさいと勧めています。
それは幸運の種を蒔く行為に成ると断言されています。
でも、これこそは、古来から悪徳な宗教や人物に対して、寄付を強要する口実に利用されて来た
詭弁(きべん:間違っていることを、正しいと思わせるようにしむける屁理屈)にも悪用された
内容かも知れません。
大先生や聖人や覚醒者を自称しながら、金銭や肉体の提供を言うような相手には、
決して近付いては生けません。
そのような悪徳な人物に寄付をすることは、更なる被害者を生み出すことを自分が
幇助(ほうじょ:犯罪を手助けすること)したことに成りかねません。
過去に知らずに思い当たることが有っても、これからを注意すれば問題はないです。
釈尊は、この項でわざわざ提供するに値する人物の条件を指定しています。
これは逆に言えば、
* 陰では真面目に生きていない悪人
* ワレヨシな人物
このような相手には、「物を上げては生けない」という示唆でも有る訳です。
悪徳な人にモノを上げれば、それが善意からでも、自分に悪い因果を積むことに成る訳です。
後からも良いことが有りません。自分の幸運を失くすことを自覚しておきましょう。
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日本人の道徳心
「中庸の精神」
豊かであれば豊かなように、
貧しければ貧しいように、
敵に対しては敵に対するように、
苦しい時には苦しいように、
その時に応じた振る舞いができるように心掛けること、
この中庸の精神が大切である。
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今日の諺
「十年一日(じゅうねんいちじつ)」
【意味】
ずっと同じとき。
長い年月の間、まったく変わらずに
ずっと同じであること。
また、長い時間がたっても、進歩しないこと。
十年間、同じ一日を過ごすという意味。
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