「気持よく差し出された物しか受け取ってはいけない」
釈尊の説法を聞いた農夫は大いに感銘を受けて、
「あなたこそは、心に永遠の作物を耕作させる農夫でした」
と言い、大きな鉢に大盛りの乳粥(ちちがゆ)を釈尊に差し出します。
しかし釈尊は何と、これを断ります。
「古代から伝承される聖なる詩。つまり御経や聖典・聖句(マントラ)の
類(たぐい)を話して・教えて・それで得た報酬を私は食べては生けないのです。
修行者である農夫さん。これは悟った普通の聖者が行うしきたり・習慣では決してありません。
ブッダ(転生の最終達成者)と呼ばれる真に悟った者だけは、聖なる言葉を説明してから、
やっと与えられた物を得ては生けないのです。
こういう掟(おきて)が宇宙に存在する為に、ブッダを自覚する者の生活だと思って、
お断りすることを許してください」
(原始仏典 スッタニパータ 第1章4節-No.81)
これは驚くべきことが書かれた内容です。
現代までの精神世界に一石どころか、爆弾を釈尊は投じています。
ただ、伝統宗教を未来に残すためには、金銭は必要です。ただし、
* 寄付などの強要をすることは絶対に生けない。
* 説明や説得をしなくても、相手から気持ちよく差し出された金銭は受け取っても良い。
以上が、因果を見据えて釈尊の言われた「気持よく差し出された物しか、得ては生けない掟」です。
私もお寺を護持運営する過程でいつも一番意識しているのが上記の内容です。
日本は御中元や御歳暮などの贈答の習慣が有りますが、贈る相手側の内心・心境には
注意が必要だという教えの項でもあります。
「無理に」物や金銭を得るということは因果の道理として怖いということです。
得た側の組織や人間の生命力を削ります。
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これは驚くべきことが書かれた内容です。
現代までの精神世界に一石どころか、爆弾を釈尊は投じています。
釈尊が言うには、
* 真の聖者は、無言で立つだけで、その人物を見られた上で、差し出された食物は得ても良い。
* 過去の聖典の類を説法して、持ち出して、説得して、やっと得られた物は決して食べては生けない。
これは逆に言えば、現代風に解釈すれば、
* 御経や聖句(マントラ)を称えるから、1回いくらと金銭を「請求」しては生けない。
ということも言えます。これは供養、祈願、院号、法名に対してもです。
しかし、伝統宗教を未来に残すためには、金銭は必要です。つまり、
* 寄付などの強要をすることは絶対に生けない。
* 説明や説得をしなくても、相手から気持ちよく差し出された金銭は受け取っても良い。
という拡大解釈は可能です。
私たちも、特に日本は御中元や御歳暮などの贈答の習慣が有りますが、
贈る相手側の内心・心境には注意が必要だという教えの項でもあります。
ましてや、正しい相手から、何の落ち度も無い他人から、「無理に」「違法に」物を得ることは
因果の道理として実に怖いことなのだ、ということです。得た側の人間の生命力を削ります。
胸に覚えて置きましょう。
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日本人の道徳心
「生きがいある生活」
男も女も、生きがいある生活のためには、
もう少し肩をいからすことをやめて、
よきものを受け容れることを学ぶ必要があるようだ。
通勤電車の窓から夕日が美しかったら、
その美を受け容れよう。
健康だったらその喜びを受け容れよう。
病床になったら、皆が忙しくかけまわっているときに、
静寂のときを持てることを
鋭い感謝の念をもって受け容れよう。
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今日の諺
「不老不死(ふろうふし)」
【意味】
ずっと若いままで年を取らず、生き続けること。
老いず死なずということ。
「不老」は老いないこと。
「不死」は死なないという意味。
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