「喜びはどんな生活の中にも落ちている」
さまざまな宗教を体験して、それで自分が変わらないことを思い知ること。
色々な宗教的な内容・教理‣教義を他人と論争しても、何の意味も無かったこと。
それを超えて、「自分自身を深く見詰める」「内観・静観する」という
正しい道に人が至った時、真の悟りへの知恵が生じます。
だから、どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟
を持ちなさい。(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.55)
※悟りとは、悠久の昔から大いなる存在が、私のいのちの奥深くへ来て宿って
下さっていたのだ、この素晴らしい真実に気付く歓喜の瞬間でもあります。
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自分の良心・いのち以外の外なるものを信じるという信仰は、
* どんなに感動しても、
* その内容で他人と論争しても、
* 家族との時間をムダにして懸けても、
* それで半世紀が経っても、
自分自身は何も変わらなかった。成長しなかった。
とらわれや、こだわりや、かたよりが強くなった。
ましてや、悟りとは真逆で悟り(安心)に行き着くことは無いのです。
人生の時間の大半をムダにする経験をしてから、やっと、
* 本当に大切なことは、自分の心の中に在ったのだ。自分の心の中に
仏さんは(良心・仏性)いつでも、どこでも、どんな時でもいらっしゃったのだ。
* 宗教的集会やセミナーや加持祈祷よりも家族との時間が大切だったのだ。
* 心の問題、信仰については、偉い人と言われている人から元々学ぶ必要は無かったのだ。
ということを、賢明な「一部の人だけ」が気付けます。
痛い思いを経験してから、気付ける人は、まだマシなのです。
大半の人は死ぬまで気付けずに、自分自身の心を見ずに、
外存する神仏の信仰するままで終わります。
そして死後に目覚めた時に、ムダにした今生を後悔します。
心の問題については、
* 他人の心の改善パターンが、自分に合うとは限らない。千差万別なものであること。
* 自分の良心(仏性・本当の自分)が、すべての宗教の本質・何が正しいのか。
を誰もの心が、既に本能的に知っているのです。
自分の心が知っているが、「思い出せないだけ」なのが真相です。
悟りとは、悠久の昔から大いなる存在が、私の心の中に来て宿って下さっていたのだ、
この真実に気付く大安心の瞬間でもあります。
※「み佛は人のいのちの奥深く 来たり宿りて今日もまた 南無阿弥陀仏と喚びたもう」
元龍谷大学学長 信楽 峻麿
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お客様の声
伊勢丹新宿メンズ館
自分でエルメスのスカーフを洗って
張り感がなくなってしまったので、
仕上がりを楽しみにしています。
阪急メンズ東京
ダウンコートをお引き取りのお客様へ
保管サービスのご説明をしたところ、
興味を持ってくださり、
次回出す時に検討されるそうです。
日本人の道徳心
「向き不向きを知る」
人は、自分が何に向かないかを
確実に知ったら立派なものだ。
自分はあれをやってもできるのではないか、
これをやってもできるのではないか
と思っているうちに、
本当の力を集中すべきものがわからなくなったりする。
あらかじめ、あれだけはやりたくないという、
いわば"負"の分野が決まれば、
努力目標がそれだけ明確になる。
自分の向き不向きを知ることは、
人生を成功に導く非常に重要な気づきとなる。
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今日の諺 「勤労奉仕(きんろうほうし)」
【意味】
お金をもらわないで、公共の目的のために働くこと。
国の事業や災害のときの救助などがある。
ボランティア活動と似ているが、
ボランティアは自分から望んで
自由に行うものであるのに対し、
勤労奉仕は自発的でない場合
(学校で決められているなど)もある。
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