「申し訳ないと思える人は問題ない」
他人と二人でいる時は、何でも過剰に詳細を語り過ぎるものである。
しかし、自身がつい不用意で余計なことをしゃべり過ぎても、
自分にも相手に「申し訳ない」と思える人は問題がありません。
次からは、自分の軽率で不用意な思いや言葉に意識を向けて
自分や相手の「心配心」や「猜疑心」を生まないことを意識するからです。
自分の心配心や言葉から「自分で自分自身を破壊する災い」を釈尊が指摘され
ています。(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.49)
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普通の解釈では、自分が話したプライバシーが、
後から災いを呼ぶという「話の内容」の指摘だと思われることでしょう。
でも私の感応では、その話の内容はまったく問題では無くて、
* 自分で後から心配して、自分自身を後悔して心配すること。
* 生活のすべてにおいて、これもあれもアノ話からの嫌がらせだと自分で被害妄想に陥ること。
* つまり、話の内容は問題では無いのに、自分の猜疑心がすべてを自ら破壊することに成る災い。
* 中には、自分が話してしまったという心配心から仕事も辞めてしまい、無職になってますます病む人も。
つまり、自分の心配心から「自分で自分自身を破壊する災い」を釈尊が指摘されていると私は解釈します。
2500年を経過しましても、人間が心配心に落ちる盲点は、まったく変わらないようです。
* 自分で自分自身を心配心から破壊しない為に、他人には余計なことを話すな!
* いつでも、自分一人で淡々と歩いて行く覚悟をしていなさい。これが逆に、
他人と良い交友が出来る秘訣なのです。
このように釈尊が仰っていると感じてなりません。
今日からは他人と話すプライバシーは、ほどほどに上手く交わして、
後から自分に心配心が起こらないように生活をしましょう。
これが、自分自身に明るい、ムダな心配の無い生活をプレゼントしてくれます。
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業を変える
「いかなる思想も哲学も捨てる」
君よ、私には「私の考えは〇〇である」
という思想などありはしない。
いかなる思想に執着を持ったとしても、
執着からは苦しみが生じるから。
あらゆる考えとあらゆる思想には、
心を乱す性質があると気づいて、
私はいかなる考えをも、つかまない。
私は、哲学や思想を捨てて、坐禅瞑想し、
内面の安らぎを見出したのだから。
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日本人の道徳心
「二代目」
親の偉大さを継いで二代目となる時、
今までの路線に安住して手堅くやり、
無理に頭角を現わさずにいられるのは、
心理的に非常に安定度の高い人と考えてよい。
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今日の諺 「自画自賛(じがじさん)」
【意味】
自分で自分のやったことなどをほめること。
【由来】
東洋の絵画には、絵の中に、
その絵に関係する詩や文章が書き加えられることがあり、
それを「讃」という。
賛はふつう、絵をかいた人とは別の人が
その絵をほめるために書くものだが、
絵をかいた本人が自分で書くことがあった。
自分で賛を書くことを「自画自賛」ということから、
この言葉が生まれた。
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