「孤独を恐れてはいけない」
親友、友情の為に、
それを維持する為に自分が無理をするならば、
それは他人の視線を気にするがゆえの自分の執着です。
これは自分自身を害する可能性が有ります。
交友関係におきましても、
自分自身が外見を気にする自我を増大させる
執着である危険性を知っておきましょう。
どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。
(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.37)
※本当の友人関係とは何か?
そこに自分自身を良く見せたい自我の執着が無いか?
を考えて置くことも、自分の仏性を発露させる為には大切なのです。
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この項で釈尊は、交友関係でさえも、
すべては他人の視線を意識した行動であることを示唆しています。
友人だと思う相手と、その周囲の人々への体面を意識した行動を、
交友だと思っていないか?と投げかけています。
そういう関係は、
元は自分自身の見栄であり自我(良く見せたい欲)の執着からの産物だと示唆しています。
人は、自分一人だけでポツンと居ることが、
他人の視線を気にしてカッコ悪いと思うサガが有るということです。
そこを釈尊は、
* 自分一人で居ることを恐れるな!
* カッコ悪いと思うな!
と叱咤(しった)しています。
それを恐れる心は、自分の自我の執着から発生していること。
自分の弱い自我が、他人とつるむ、友人が多い様を演出していると看破しています。
自分には友人が多いという無理な演出をさせます。
これは自分を良く見せたいという執着から生じています。
人間は、執着を大きく育てている限り、本当の幸福感も幸運も来ないのです。
釈尊は更に、
* 自分を良く見せたい執着を大きくする間は、転生(再び生まれ変わること)する。
とします。
本当の友人関係とは何か?
そこに自分自身を良く見せたい自我の執着が無いか?
を考えて置くことも、自分の真我(内在神)を発露させる為には大切なのです。
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業を変える
「知識から自由になる」
内面を見つめる力や集中力や落ち着きといった
能力を高めるトレーニングをするかわりに
知識を増やそうとするのは、愚か者の証。
哲学・政治学・経済学・心理学・文学・
さまざまな言語なんかの知識を
むやみに増やすことによって。
記憶のメインメモリーは
不必要な情報のノイズで埋め尽くされ、
頭が混乱するだけ。
「せっかく学んだのだから他人にひけらかしたい」
とか「せっかく学んだのだからこの知識を使ってみたい」
などと、それらの知識への執着が生じるがゆえに、
知らず知らずのうちに知識に支配される。
その知識のフィルターを通してしか
物事を感じることができなくなり、
いつの間にか不幸になってしまう。
頭を混濁させる小ざかしい知識のフィルターを離れて、
ものごとをありのままに感じるように。
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日本人の道徳心
「中をよくする」
私の結婚式のとき、
恩師のいってくれたこと。
「あなた方はケンカすることもあるかもしれないが、
そんな時、相手が悪いと思ってはいけない。
お互いに立派な人なのである。
ただ中が悪いのだ。
自分でもない、相手でもない、
丁度二人の真中へんが悪いのだと思いなさい。
中が悪いのだからその中をよくしなさい。
仲よくしなさい。」
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今日の諺 「夫唱婦随(ふしょうふずい)」
【意味】
夫婦の仲がとても良いこと。
「夫唱」とは、夫が言い出すこと。
「婦随」とは、妻がしたがうこと。
夫の言葉に妻がしたがうという意味。
【由来】
昔の中国の本に
「天下の理(ことわり)は、
夫は唱え、婦は随う(したがう)
(世の道理は、夫が言って妻がしたがうこと)」
とあることから。
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