誰にでも死が近付いています。
だからこそ、自分の心 “に” より所を持ちましょう。
今に出来ることは、何でも直ぐにして行きましょう。
自分なりに知恵を持って生きましょう。心に汚れが有れば、
感謝で流しましょう。
そして、今から悪事をしなければ、人は必ず天の尊い所に赴くのです。
(原始仏典 ダンマパダ18章-236番)
🌌念仏者の生き方
「才一は臨終すんで、葬式すんで、南無阿弥陀仏とこの世にはいる。
才一は阿弥陀なり。阿弥陀は才一なり」
念仏者の才一は、私はもう臨終は終わった。
葬式ももうすんだ。そんなことはもう心配することはない。
ただただ南無阿弥陀仏とお念仏をよろこび、いつも仏さまと一緒に、
この世で日暮らししておりますよ、というわけです。
私を離れて仏はなく、仏なくして私はありません。
私が仏であり、仏が私である。二つは一つという心境でしょう。
これが、お念仏をよろこんだ浅原才一さんの深い心の世界でありま
しょう。信楽峻麿著「仏教行事の心を開く」
(感想)
子供でも、大人でも、
常に誰もが死と隣り合わせです。
この避けられない事実を、自分が若くて健康な内から
「明るく」死というものを忘れないでいますと、
* ひどい喧嘩をしている者同士を見れば、
つまらないから止めろと言いたく成ります。
* ひどい上司に自分がイジメられましても、
良い修行をさせてくれるものだと冷静に見られるかも知れません。
* 困っている人を見掛ければ、手助けをするかも知れません。
* 自分が他人からダマされましても、
それも思い出だと思えるかも知れません。
自分が必ず死ぬ存在だと意識するだけでも、
なんと気持ちが楽に成れるのでしょうか。
人間の悩みとは、
自分が必ず死ぬことを忘れているために、
起こることばかりです。
ただ、
このようなことを病魔に侵されて自分が動けなく
なってから気付きましても、それはもったいないのです。
(中略)
私たちは、コノ世(陽の世界)という、
まだ人生の「半分」を生きているだけなのです。
だから何も慌てることは無いのです。
コノ世で他人をイジメている人間を見れば、
アホな人だと思って笑っていましょう。
そんなことよりも、自分に実在する大いなる存在に感謝をして、
今を懸命に生きることが、本当に貴重であり大切なことなのです。
コノ世だけで可能な、期間限定のことです。
この継続により、人は永遠を生きることに成ります。
すべての恐怖は去り、浅原才一さんのように阿弥陀さんのお慈悲で
絶対安心に包まれることでしょう。
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