「一人寂しくても大丈夫です」
食べ物を控え目に節制して、
その人の心が浄化して、
その人の心が無心(包み込む)の心境に在り続けるならば、
その人が存在した痕跡を知ることは難しく成ります。
それはまるで、大空を飛ぶ鳥の軌跡が見えないようにです。
(原始仏典 ダンマパダ7章-93番)
(感想)
自分なんて、社会の隅に目立つことも無く、
今自分が消えても誰も気付かないし、誰も悲しまないだろう。
と、現代社会では思う人が多いことでしょう。
その一方で、社会の成功者が肖像画を会社に残したり、
自分の銅像を多くの人々の目に触れる場所に残したりします。
では釈尊の理想とする真に悟った人とは、
どちらの人物に近いのでしょうか?
「その人が存在した痕跡を知ることは難しく成ります」
と釈尊は答えています。
つまり、誰にも知られることもなく、
陰でひっそりと死んで行く人の中にこそ、
真に「尊い人」が存在すると仰っています。
(中略)
この章から私が言いたいことは、自分は一人であり、
誰にも無視されているからダメだと思わないで欲しいのです。
むしろ真理の視点では、理想に近いのです。
ただし、釈尊は「その人の心が無心(包み込む)の心境に在り続けるならば」としています。
つまり、何事にも執着心を残さずに、
コノ世の陰に居ることこそが、
それが正解であり真のコノ世の勝利者なのです。