「母の日 生んでくれてありがとう」
私を含めて
すべてのいのちは自然の
中で生かされて生きています。
大いなるいのちの真っ只中に
生かされていきているのです。
「しぜん」と
「自然」とは全く違います。
「しぜん」は
人間の意図的な手が加えられたもの。
「じねん」は
何のはからいなくもとよりあるもの。
つまり、
「自然」(じねん)の自は、
如来「おのずから」ということであり、
「然」は
「そのようにあらしめる」という
意味です。
「そのようにあらしめる」というのは、
阿弥陀さまの本願によって
そのようにあらしめることを
「法爾」といい、
本願のはたらきは、
行者のはからいではなく、
南無阿弥陀仏と信じさせ、
称えさせ、
お浄土へと迎えようと
はたらいて下さっているのです。
と、
親鸞聖人は「自然法爾」と
説き示されました。
つまり、
私といういのちは
ただ生まれて空しく死んでいく
いのちではなく、
いつも阿弥陀さまの
自然(じねん)のいのちのはたらきの中に
生かされて生き、
やがて私のいのちを生かしめている
大きなはたらきの根源のいのちに
還っていく歩み、
それが仏道でありお念仏の道ですね。
4月の初旬、
「ゴッホ アライブ」で鑑賞した
ゴッホの絵が燃えるように揺れて
いるのは、目に見えない大きないのちの輝き、
「絶対歓喜(この世のすべては、大きないのち
の慈悲の粒子で構成されており、それは喜び
勇む歓喜の振動で揺れている)」を垣間見て
いたからです。
彼の悲劇は、
たまに目撃する絶対歓喜の景色と、
現実世界とのギャップに苦しんだのです。
彼の心境が静寂合わせ包む、
良いことも悪いことも、
愛情心で受け入れることまでの
キャパシティがあれば、
現実世界の中にも絶対歓喜を
感じ
観ることができたのでしょう。
親鸞聖人は、
自然のはたらきの中に
絶対歓喜を感じ
観られていかれ
大いに喜ばれていかれた
のだと感じます。
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