たまに出る自然な言葉こそが、本当の思いなのです。
どんな強風も朝まで継続することはありません。
どんな豪雨も、一日中は継続することがありません。
誰がこんな操作をできるのでしょうか?
それこそが天地自然なのです。
天地自然ですら、同じ物事を
長く継続させることができないのです。
ましてや、私たち人間が同じことを
継続できるはずがありません。
だから、真理に従って生活する人は、
真理と一体化することになります。
道徳に従う者は、道徳的な生活となります。
無礼な者は、無礼な生活に染まります。
真理に従う者は、真理のほうからも求められます。
道徳に従う者は、道徳のほうからも求められます。
無礼をする者は、無礼をすることを楽しむようになります。
つまり、人間は自分が信じない物事には、
向こう側からも自分が信用されません。
人は自分が信じたことと、一体化をします。
前半は、どんな物事も必ず変化していくから
安心しなさいということです。
そして、強制ではなくて、
自然な流れを大切にしなさいとも示されています。
後半は、要は、要は、同類同士が引き合うということです。
これは人間同士に限らず、読む本や信仰、遊び、食事⋯⋯、
何でも自分から求める物事は、
向こう側からも自分のことを求めているから
出会う縁が生じることを言っています。
前半と後半の二点を合わせますと、
老子は人間が作った規則や強制を嫌ったという意味もあります。
この時の老子は公務員の中間管理職として、
職場で言いたいこともあったのでしょう。
「天地自然でさえも同じ風景が継続できないのに、
そんな厳しい規則を人間に言ったところで馴染むわけがない。
それよりも、民衆から出る小さな声を大切にするべきだ。
どんなに強制しても、人間は自分が信じる・
受け入れられることしかしないものだ」
と、老子が言っているようにも感じます。
ただ、何でも自然がよい、自由がよいと言いましても、
それも自分の怠惰な気持ちに過ぎません。
だから、人間は自分の良心(道・先祖の心・内在神)に従って、
自分ができる努力をした上で、それで生じる縁の流れを
自然と受け入れることが大切なのではないでしょうか。
「柔訳 老子の言葉」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・