若い芸人さん(もめんと)が理想のコント目指して
全力で熱中している姿ってとっても美しいです。
世の人々は全員が、美しいものは美しいと
認識している"つもり"ですが、
これは正しくはないのです。
世の全員が、善は良いものだと思っていますが、
これも正しくはないのです。
その理由は、善と悪、難しいとやさしい、
長いと短い、高いと低い、強いと弱い、
金持ちと貧乏、美人と不美人⋯⋯、
このようにすべてを「他人と比較する心」から
人は認識しているからです。
これが正しいことなのでしょうか?
比較された犠牲者がいるような、
人の認識は本当に正しい気持ちなのでしょうか?
そうではなくて、すべてがお互いに
調和して存在することを知って初めて、
人は正しく物事を認識することができるのです。
だから真理(道)を知った聖人は、
このような「比較する」区別をせずに、
無言のままで自分の生活態度により
正しいことを実行して人々に見せます。
聖人は、万物の自然のままの状態を尊重して
自分の手を加えることをしません。
万物を育成しても縛り付けず、
善いことをしても見返りを求めません。
物事を達成しても、
その名声や評価を求めません。
そもそも、その必要がないのです。
なぜならば、他人も含めて、
コノ世のすべての物事が
聖人の「持ち物」であることを知っているからです。
第二章では、老子が珍しくも
ご自身のことを説明しています。
しかし、この原文から老子の言いたい真理に気づく人が、
どれほどいるのかが疑問です。
それほど高度なことを老子は言っています。
人間が自分は知っていると
思い込んでいる程度のことなどは、
すべてが弱者との比較から成り立っているのです。
人間は比較することでしか、
物事の認識ができない程度だと示唆しています。
そうではなくて、善も悪も敵も味方も自分も他人も、
すべてが一体であることを知らなければいけません。
老子は、コノ世のすべてが自分自身の持ち物だから、
名声も・金も・見返りも不要だと言っています。
自分で自分をホメること(=他人からホメられること)は不要であり、
良いことも悪いことも、他人に対してしたことも、
すべてが自分自身に対してすることになる
という真理を知っているのです。
これは、すべてを支配する王様である
独裁者の意味などではなく、
究極の下からの視点なのです。
コノ世のすべてを持つということ=何も持たない、
ことになるのです。
これは想像してみればわかります。
これは、老子だけに言えるのではなく、
私たち全員も同じ法則の下で生きています。
つまり、老子の視点とは、とてつもなく巨大なのです。
まるで宇宙から、無数の星の中の一つである
地球を見ているかのような気持ちの視点です。
私たちも小さい視点で生活をしていますと、
社会生活で嫌なことばかりを感じてしまいます。
しかし、広い宇宙から地球を
眺めるような気持ちで生活をしますと、
細かいことに執着して悩むことをやめていきます。
他人も自分自身であるという、
愛情のカタマリになって人類が生き始めれば、
コノ世は素晴らしい世界へとすぐに変わることでしょう。
このような大きな視点を持てなくても、
自分の周囲にいる人間を
自分だと思って生活するだけでも、
幸運がやって来ます。
そのような法則なのですから、仕方がないでしょう。
これに気づけるまで、人間は苦しいものなのです。
「柔訳 老子の言葉」
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お客様の声
君津本店
●千葉市より春保管をお受け取りに
来られた方が、「2週間後くらいに
また冬物持って来ます。」と、笑顔
でお持ち帰りになりました。