真の賢者は、過去の因果は消え去り、
新しい因果も、もはや関係ないし生じない。
来生への執着も持たない。
様々な「思い」の種を絶やし、
何が何でも未来にも
生存したいとは決して思わず、
灯火のように、ふっと消え去ります。
これも、人が社会の集団の中で修行することで、
賢者に至ることができる貴重な御宝です。
この真理の言葉で、幸せになって欲しい。
[原始仏典『スッタニパータ』
第二章第一節―二百三十五番]
「希望を叶えるために努力し、
悪戦苦闘をして悩むのも人生だ」
と人は思うものです。
でも、仏典を読んでいますと、
その先のことを指摘しているものが見られます。
その真意は、
「正しく、すべてを、
いかにあきらめるかを知るのが人生だ」
「肉体さえも、亡くして行くのだから」
と響きます。
それがわかれば賢者だ!
と示唆していることを感じます。
問題は、人は、
*正しく、あきらめること。
*明るく、あきらめること。
これができないのです。
非常に難しいのです。
普段は「あきらめることなんて簡単さ!」
と思っていましても、
本当に死を前にすれば、
人は迷いに迷い、後悔に苦しみながら
死ぬまでの過程を生きることになるものです。
でも、何も真剣な努力もしたことがない人間は、
元気なうちは、「あれもこれも、すべて要らない」
「とっくに、人生なんてあきらめて捨てているよ」
と、簡単に軽口を叩くものです。
でも、長い人生を、自他の生老病死を
体験しながら老いていき、
本当に死を感じだせば
様々な未消化の自分の未練が浮き出して苦しみます。
元気なうちにはわからなかった、
本当の自分の思い・願い・本音が
出ることが人に起こります。
そういう時に、自殺すれば
簡単に終われると思っても大間違いです。
釈尊は輪廻転生を指摘しており、
今回の肉体は終わっても、
その心のままに、さらに自殺の因果を背負って
人生を繰り返すことを断言されています。
来生に生まれる出る自分の環境は、
より条件(因果)が悪くなるのは間違いがないです。
正しく、あきらめること。
明るく、あきらめること。
これができるためには、社会の集団の中で、
自分なりの最大の努力をすること。
努力しても願いが叶わないことも体験して、
自他の生老病死も体験して修行することで
賢者に至ることができると、この項で指摘しています。
どんな苦労もムダではないし、
自分を賢者にしてくれる可能性があります。
「もうこの辺で良か〜bye!bye!」
と、心から思えるようになれるために、
人生を悪戦苦闘して、がんばって生きましょう。
これがないと賢者にはなれないし、
心からあきらめることが人にはできないし、
灯火のように、ふっと消え去ることはできないのです。
正しく生きて努力しても、
人生で苦労が多かった人は幸いなる人です。
未練が残らず、ただ感謝の気持ちだけが残り、
思い残すことなく天国へと旅立ちます。
皆様の参考になる点があれば、幸いです。
「柔訳 釈尊の教え 第三巻」
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お客様の声
君津本店
●セーターのシミが取れて、喜んで
いただきました。
阪急メンズ東京
●ヴェルサーチのショップより、「
ジャケットのラペルに細かなスタッ
ズが付いていても、クリーニングし
てもらえますか?」との問い合わせ
がありました。