何が正しいかがわかる心の目を持った人は、
もし、自分が肉体を使って、または言葉でもって、
または心中で悪い行為をした場合、
それが自らの態度に出てしまい、
隠すことができなくなります。
これは、最高の悟りを開いた御方も必ずそうなると、
自ら説明されて認めていることです。
これも社会の集団の中で
修行することで得られる貴重な御宝です。
この真理の言葉で、幸せになって欲しい。
[原始仏典『スッタニパータ』
第二章第一節-二百三十二番]
自分の良心をまだ失わずに持っている人。
何が正しいかを見抜くことができる人。
こういう人は、
・ウソをつくことが下手になる。
・ウソをつけない人になる。
・もしウソをつけば、
すぐに態度に出てしまいわかってしまう。
・これは、悟った人にも同じことが言える。
仏典は、「そういう人であれ」とここで示唆しています。
これは逆に言えば、
・ウソを上手につき通してバレない人は、
要注意人物である。
・平気でウソが言える人は、怖い人である。
・上手にウソが言える間は、悟りから程遠い。
・そういう人の死後の行き先は、
まだまだ修行である。
このようにも言い換えることができます。
考えてみれば昭和時代には、
何が本当に正しいことかは、
誰もが共通してわかっていた気がします。
悪人でも、何が正しいかがわかった上で、
悪事をしていたような気がします。
でも悲しいことに今の時代は、
何が本当に正しいことなのか?が
見えない時代になっているかも知れません。
育った環境によって、「正しいことって何?」と
真剣にわからない子どもたちが増えていないでしょうか?
つまり、仏典がわざわざ当たり前のことを
指摘しているように思えた、
「もしウソをつけば態度に出てしまい、
バレる人になること」が必要な時代が、まさに今です。
二千五百年前に、
末法の時代では正しいことも
当たり前ではなくなると指摘されたことが、
本当になっていると言えそうです。
今の自分は、ウソをつくことが上手な人なのか?
下手な人なのか?
もし、自分がウソをついても、
バレない自信があるか?
自分では、ウソの上手下手はわからないのか?
人それぞれの段階があることでしょう。
顔色を一切変えずにウソを言える人からは離れ、
自分はウソが下手で、もしウソをつけば
後からオロオロするような人に、
生きている間になれれば幸いだというのが、
この項の指摘です。
このようなことが、自分の死後にも、来生にも、
影響する因子になるという示唆でもあります。
つまらないウソで、
次に自分が生まれ出る環境や条件が変われば、
それは本当に何よりもの大損です。
以上のことは、アノ世が重視する点として、
覚えていただけると幸いです。
「柔訳 釈尊の教え 第三巻」
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