人は、真実を見抜く心の眼力を持ちますと、
悪い執着、疑い迷う心、奇妙なマジナイに頼る心、
という三種類のケガレから離れることが可能になります。
そして、苦しい地獄、卑しい餓鬼、ケモノの根性、
喧嘩に明け暮れる阿修羅、
という四つの苦界から離れることができ、
六つの重罪、つまり父を殺す、母を殺すという二つの大罪、
争う相手を殺すこと、高貴な人物を傷害すること、
社会の平和を壊す罪、悪い師に従う罪、
このような六種の重罪を犯すことは絶対になくなります。
これも社会の中で修行することで
得られる貴重な御宝です。
この真理の言葉で、幸せになって欲しい。
[原始仏典『スッタニパータ』
第二章第一節-二百三十一番]
人物や、物事の真実を見抜く心の目を持ちますと、
・三種類のケガレ(悪い執着、疑い迷う心、
奇妙なマジナイに頼る心)から離れる人生を歩み。
・四つの苦界(苦しい地獄、卑しい餓鬼、
ケモノの根性、喧嘩に明け暮れる阿修羅)
とは無縁な人生になり。
・六つの重罪(両親を殺すという二つの大罪、
争う相手を殺すこと、高貴な人物を
傷害すること、社会の平和を壊す罪、
悪い師に従う罪)を犯す人生とは無縁になる。
このように、人生における様々な害悪、悪いパターン、
犯罪に巻き込まれることから離れると示されています。
でも、「そんな真実を見抜く目を、誰もが持てるのか?」
「私も持ちたい!」と多くの人は思われるかも知れません。
答えは、誰でも持てます。
さらに言えば、誰もが持っていた、と言えます。
幼児の頃は、誰もが「怖い」「好き」を
最初の直感で判断ができていたのです。
人物でも、場所でも、食べ物でも、遊びでも、
何に対しても「イヤイヤ」か、または笑顔で、
その本質がわかっていました。
でも、成長するにつれて自我(我良しな心)が芽生えますと、
真実を見抜く心にフタがされていきます。
だから、大人になっても、
この仏典が指し示すように、
*今の物事を、白紙にした素直な心で、見直してみること。
*真実を見抜くには、その外見ばかりを見るのではなくて、
その物事や相手の心を見るつもりでいること。
*自分の良心という心の目で、
物事を見るように意識すること。
*そこに、良心はあるのか?
これを考えましょう。
これを普段から心得ることで、
真実を見抜く心の眼力が醸造されていきます。
人間は、自分が意識もしないことは、
それは持てないのです。
自ら意識をしていくことで、
その片鱗を持ち始めます。
素直な心の目で物事を見ていけば、
誰もが良心に基づいた判断ができると私は感じます。
「心の目で見なされよ」と、
自分自身に呼びかけることを
参考にしていただければ幸いです。
「柔訳 釈尊の教え 第三巻」
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