城壁の門の柱は、
地下深くまで打ち込まれており、
四方からの風圧にもびくともしません。
尊い四つの真理である
四識を理解し、自ら心がける人は、
城壁の門の柱のように
びくともしないことを、
私は断言します。
この優れた真理は、
集団で学ぶ社会の中でこそ生きます。
この真理により、幸福でありましょう。
[原始仏典『スッタニパータ』
第二章第一節-二百二十九番]
仏教の根本理念である「四諦」とは、
「四つのあきらめる方法」でもあります。
⑴人が生きるということは、
「苦」であるという真理
⑵その苦の原因は、
人間の「執着」にあるという真理
⑶この苦を滅した境地が、
「悟り」であるという真理
⑷その悟りに到達する方法が、
「仏道」であるという真理
人の苦しみの原因のすべては
「執着」から起こると
釈尊は指摘します。
だから、「何事にも執着しなければ、
苦しみは発生しない」と断言します。
*恋愛も、どうしてもあの人だけ、
という執着から苦しむことになる。
*貧乏も、カネが欲しいという
執着から苦痛になる。
だから貧乏ならば、
貧乏の中で楽しめば天国。
他者を見ません。
*病気も、どうしても治す
という執着を持てば焦り苦しい。
病気と同行二人、病気と共に
歩む覚悟をもって、
その中でも楽しむ視点を持つこと。
では、何でもあきらめれば、
本当に苦痛は去るのか?
ここで勘違いしてはいけないことは、
「あきらめる=何もしない=努力もしない」
では決してありません。
*自分ができる最善の努力をしながら、
その結果には執着しないこと。
*あきらめた上で努力したほうが、
脱力した本当の自力が出て、
未知の他力が働きます。
*すべてをあきらめているほうが、
冷静な視点で物事を見て騙されません。
問題は、あきらめている人間は、
実際には何もしないのではないでしょうか?
あきらめているのに、
人は努力など本当にするのでしょうか?
ここが個人差が出る点であり、
運命の分岐点となります。
本当に地獄を見た人は、
真から苦しんだ人は、あきらめた上で、
自分ができる努力をすることを自然とします。
だから、まだ中途半端な苦しみの人は、
すべてをあきらめて放棄して、
何もしない地獄の時期を過ごした後に、
次の心境を理解することになるでしょう。
釈尊は、「四諦」を通じて、
何もしないというあきらめではなくて、
あきらめた上で仏道に専心することが、
人を真に幸福にするとします。
それは、城壁の門の太い柱のように、
揺るがない人間にすると断言されています。
ここで思い出す言葉は、宮本武蔵の言葉です。
「仏神は貴し 仏神は頼まず」
(私は神仏を尊んで拝むが、
神仏に頼ることはしない。
最晩年の書「独行道」より)
これを四諦で解釈すれば、
*努力はするが、その結果に執着はしない。
*すべてをあきらめた上で、
自分ができる最大の努力をして生きる。
霊的には、あきらめた上で最大の努力をすることは、
自我(我良しの思い)からの
妨害を防御する意味でも、
自分の生霊のムダな漏電を軽減させる意味でも、
非常に有効です。
これは最善の結果を呼びやすくなると言えます。
皆様の参考になれば幸いです。
「柔訳 釈尊の教え 第三巻」
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