歴代のブッダ(悟った御方)の
教えを自分自身に実現するために、
堅い意志をもって、
懸命に努力する人は、
正しく死への恐怖から解放され、
欲望からかけ離れた
無償の大きな安心感の中で
住むことを得ます。
この最高の御宝は、共に努力する
仲間たちがいるからこそ、
得られるものです。
この真実の言葉によって、
幸福でありましょう。
[原始仏典『スッタニパータ』
第二章第一節-二百二十八番]
コノ世には様々な人が存在します。
どんな人間も、平等に
逃れることができないのは、
死への恐怖感です。
コノ世のどんな成功者も、
無一文の裸に戻してしまうのが死です。
では、何も持たない人は、
死への恐怖感はないのでしょうか?
そんなことは、ありません。
普段は「いつ死んでも良い」
と言っていましても、
本当の死の目前になれば
一瞬のうちに、今回の自分の
人生のすべてを早送りの
画面のように思い出し、
悔いが残ったことを思い出します。
自分が忘れている後悔したことや、
恥ずかしいことを思い出します。
そして、自分が叶えられなかった
執着したことを思い出します。
その上で、死の目前には
誰もが謙虚になれます。
その時には、普段に
「いつ死んでも良い」
と言っていた自分はもういません。
そこで初めて本当の
死への恐怖感が起こります。
そして、本当に死への恐怖感がないのか?
これがハッキリとします。
自分の良心(内在神)が、
自分自身の人生に
公平で厳正な評価を下します。
自分の良心に恥じることが本当にない人、
または、良心に恥じることはあったが、
それを上回る善意の
上書き修正ができた人は、
死への恐怖は消え去り、
絶対的な安心感が自分を
呼んでいることが心からわかります。
その時の自分は、
傍から見れば意識不明の状態ですが⋯⋯。
ただ、この項は、
またまた後世の加筆だと断定します。
「この最高の御宝は、
共に努力する仲間たちが
いるからこそ得られるものです」
という一節は、
「サイの角のように、ただ独り歩め」
とおっしゃった釈尊の言葉から
離れるものです。
間違いだと判断します。
釈尊が、集団を肯定したことはありません。
サイの頭部には、
そそり立つ一本の太い角があります。
そしてサイは、群れではなく
単独で行動することが知られています。
この比喩は、
「自分だけを見つめること」
「自分自身を静観すること」
を釈尊がもっとも重視したことを
表現した例えです。
私たちの悩みの九十パーセントは、
「他人との人間関係から起こる」
ものばかりであることに気づいてください。
そして、他人との人間関係から
生じる悩みは、
・心の成長が起こらない
ムダな悩みが多いこと。
・自分自身を見ずに、
自分を知らずに、他人ばかり
見ているサガから起こる悩みなのです。
以上を看破された釈尊は、
「サイの角のように、ただ独り歩め」
と様々な表現で指摘されています。
「自灯明」
(自分自身を、自分が求める明かりとせよ)
も同じ意味です。
元気で順調な時こそ、
正しく死を恐れて、
必ず死ぬということを忘れずに、
悪い因果を残さない
生き方をしたいものです。
これは、正しく普段から
死を忘れないことで可能になります。
皆様の参考になれば幸いです。
「柔訳 釈尊の教え 第三巻」
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