雪山に住む神霊と、七岳山の神霊が、釈尊を前にして宣言します。
「人々に説法を聞かせる者であり、教育者でもある釈尊よ。
あらゆる霊的存在を超越して、生きながらアノ世に到達した叡智の者よ。
カースト身分制度の戒律をも破壊し、恐怖するべき権力者たちをも恐れない
完全なる覚者である釈尊。
完全なるブッダ(知恵を完成させた人)と言えるあなたに、我々から問いかけます」
「原子仏典『スッタニパータ』第一章第九節ー百六十七番」
まず雪山に住む神霊が問いかけます。
「どんな条件が揃って初めて、社会の中で”私が”という思いが発生するのですか?
何を原因に持って、世間の中で人に自我が発生し得るのですか?
”私が”という自我を持つことが、社会の中でその自己存在を主張することになると、
なぜコノ世でされてしまっているのですか?
そうなった自我が、世間の中で苦しい思いを体験することに
必ずなる理由も教えて欲しい。」
「原子仏典『スッタニパータ』第一章第九節ー百六十八番」
二柱の神霊が釈尊に会うまでに、「これでもか!」というほど引っ張ってきました。
さあ神霊が、どんな質問をするのかな?と興味深く読み始めましたが、
一度目の読みでは、「はああ?なんですかこれは?」
二度目の読みで、「こ、これはかなり高度なことをいきなり聞いているようだ。」
三度目の読みで、「これはまず、質問の意味がわかる人が少ないかもしれない。」
このような感想を持ちました。
神霊が聞く質問といいましても、それを見ている人間側を意識した基本的な質問から始
まると思われた人も多いかも知れません。
ところが、神霊は最初から、この世の苦しみの発生と成り立ちへの疑問を釈尊に問いか
けています。
*社会の中で、いかにして人間の”私が”という自我(ワレヨシの思い)が発生するのか?
*”私が”という自我を持つことが、社会の中で個性として良しとされてしまった理由は?
*発生した自我を持つと、人は社会の中で苦しい体験をすることになるのは、なぜか?
神霊からすれば不思議で仕方がない、
*必ず苦しみを呼ぶ原因(磁石)となる自我を、どうして人はこの世に生まれ出れば、
持つのだろうか?
*アノ世にいる間は自我を持たないのに、コノ世に生まれると人は自我を持ってしまう。
*しかもその自我が発生するほど、その人は後で苦しみを持つことになるのに。
このような疑問を神霊は持っているわけです。
ここまで解説しますと、これは中々、ド・ストレートな良い質問である可能性がわかります。
コノ世で人間に、苦しみの思いが発生する根本への疑問を釈尊にぶつけています。
逆に言えば、コノ世に存在する、生まれている神霊にも、この答えがわからないようです。
そこで最初の百六十七番に見られます釈尊への美辞麗句(たくみに飾った称賛の言葉)の意味
がわかります。
「こんなに称賛される釈尊よ、必ず答えられるよな?」というプレッシャーを、神霊は釈尊に
対してかけていたようです。
さて、この難解な問いかけに、釈尊はどう答えるのでしょうか?
宇宙の創生にも関わる、非常に難しい直球の疑問です。
「柔訳 釈尊の教え 第ニ巻」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・