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「心は年をとらない。心には年齢は無い」 2/10(土)

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肉体には年齢がありますが、心には年齢が

ありません。20歳の時と、年を経た50年

後も、その心は同じです。肉体が老化すれ

ば、心も老化すると思うのは、見える景色

に誘導されただけの思い込みなのです。

思い出して欲しい。今の心は、何歳の気分

まで戻れますか?

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雪山の神霊が続けて言いました。

「何者をも恐れないライオンの如く、

どんな欲望の対象にも

惹かれることなく

毅然と立つゾウの王様の如く、

一人で修行に歩く、

釈尊の尊顔を拝しようではないか。

そして、いかにして

死の恐怖から自由になれたのか?

聞こうではないか」

[原始仏典『スッタニパータ』

第一章第九節-百六十六番]

 

神霊でも気にする要点が、

いかにして死の恐怖から

自由になれたのか?ということです。

人間として受肉した者であるのに、

「死の恐怖から解放された御方」

という釈尊への風評が、

それは本当なのか?と

神霊は興味津々なわけです。

 

それほど人間にとっては、

「死への恐怖感」というものが、

人生の最後まで支配する大命題なのです。

人間の本能として最後まで残るのが、

死への恐れなのかも知れません。

人間が苦労して働くのも、

交通事故を注意するのも、

定期検診をするのも、

そのすべては、

「死ぬかも知れない」

という本能からおこなうことです。

 

もし、人間の本能から「死を恐れる」

というサガを除去した場合、

人類はどうなるのでしょうか?

ヒャッハー!

と嬉々として殺し合いをおこない、

簡単に絶滅することでしょう。

強い死への恐怖を抱く

今までの人類でも、

戦争という大量殺戮を

おこなってきたのです。

この上に「死を恐れない」

という人類になれば、

もう際限のない悲惨な世界が

到来するのは間違いのないことです。

 

釈尊は、創造神が

人類に植え付けた

「死への恐怖」という本能を

断ち切ったというわけです。

神霊も、それは本当なのか?

では、どうやって釈尊は

死の恐怖から自由になれたのか?

が知りたいのです。

 

神霊にすれば、肉体を持たない

自分たち不死の神々と、

人間との決定的な大きな差は、

死への恐怖感の有無だと思っていたのです。

それが、生きる人間のままで、

死への恐怖をなくした者が

出現したと聞いて

不思議に思っているのです。

神霊にしても、受肉の転生が

過去にあったとしても、

神霊として自由自在になれたのは

死後の話だからです。

 

ここで思い出しますことは、

釈尊の発言にあります、

「天上天下唯我独尊」。

宇宙には自分一人だけが、

独りで存在している。

宇宙全体が自分だった。

すべては一つだった。

他人も、自分自身だった。

 

この境涯に釈尊は達していたのです。

すべてが自分だった。

これが深く腑に落ちた時に、

生と死という区別はなかった、

生と死は、連続した一つだった、

これが理屈を超えて、

わかってしまいます。

その時に、「死はなかった」

ということが本当にわかります。

 

さらに言えますことは、

「誰もが必ず死ぬ」。

これほどの大きなヒントはありません。

歴史上の人物も、全員が死んでいます。

私たちの知らない先祖も、

知る先祖も皆死んでいます。

これを正しく考えた時に、

死を恐れることは不要である、

これに気づいていただければ幸いです。

 

でも、自殺は厳禁であり、

大きな例外であり、

これは意味が違います。

その死後の行き先も、まったく別物です。

 

神霊たちと、釈尊の面会を楽しみにして、

さらに読み進めましょう。

 

「柔訳 釈尊の教え 第ニ巻」

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