願望、祈願、引き寄せ、個人欲には切りがありません。
願望を持つ前に、まず現状への感謝をするべきです。
強い願望は執着となり、冷静な判断を妨害します。
自分に必要なものは、強く思わなくても、すでに脳内
にあります。目標を決めて努力することで、それが
自然と叶えられていきます。
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鍛冶職人のチュンダは質問しました。
「第一の修行者、第二の修行者、
第三の修行者、第四の修行者、
これらがそれぞれ、どのような人なのか?
どうぞ私に具体的に教えてください」
[原始仏典『スッタニパータ』
第一章第五節-八十五番]
釈尊は答えます。
「第一の修行者である、
コノ世のすべての我欲に
打ち勝った人とは、
(1)他人を論破したり、反論したり、
自分のことを弁護して
良く見せたいという欲を
無くした人のことです。
⑵いつまでもコノ世に安住すること、
コノ世で有名になりたいという欲を、
無くした人のことです。
(3)コノ世にいながらにして、
心は混繋(天国)に住むという、
最高の喜びと快楽(=悟り)を知りながら、
これにも執着することがない人です。
(4)世間の人々、社会の権力者たち、
そして精霊・神々をも
陰から黙って導きますが、
決して他人に知られることがない人です。
どこにでもいる普通の人であることが
聖者の条件です。
でも、その正体は如来なのです。
以上が、第一の修行者の特徴です」
[原始仏典『スッタニパータ』
第一章第五節-八十六番]
釈尊が、「コノ世のすべての
我欲に打ち勝った、第一の修行者」
について説明されています。
最高の境地の人間とは、
コノ世ではどんな生活をしているのか?
どんな行動をする人が最高なのか?
誰もが興味を持つことかも知れません。
では、第一の修行者(=聖者)の、
その生活内容とは、
(1)誰もが、自分への誤解や
濡れ衣があれば、説明したい、
説き伏せたい、と思うものです。
また、悪い人は、特に言い訳の弁が
非常に立つものです。
ところが聖者とは、相手を論破したり、
反論したり、自分を弁護する意欲を
無くした人のことなのです。
でも、これでは、良寛さんのように
泥棒だと誤解されましても、
「仕方がない」と黙ったまま
裸にされて縄に縛られることになります。
仕事で疲れて帰った夫は、
奥さんにガミガミ怒られましても、
弁解する意欲もないかも知れません。
仕事場には、バカにされている人、
いつも怒られて失敗の責任を
なすり付けられている人がいるものです。
あれ?意外にも私たちの
周囲のダメな人だと
思われている人の中に、
聖者がいるかも知れませんね。
でも、自分が無実なことは、
相手のためにも言うべきことは言いましょう。
仕事に関しては、
間違った認識のままでは、
周囲への影響や責任問題が生じますから、
冷静に判断しましょう。
しかし、反論することに
執着はしないということです。
(2)多くの人は、有名になりたい
とは思わないかも知れません。
でも、安定した生活を継続したい、
とは誰もが思うことでしょう。
聖者は、安住することにも
執着を持たないということです。
これでは、今の社会の
有名で裕福な指導者は、
誰も釈尊のおメガネには叶わないようです。
本当の聖者ではないということです。
⑶本当の聖者は、悟りでさえも、
どうでも良いこと、大したことではない、
と思っているということです。
だから、悟りを教えて
商売の種にすることは、
真の聖者ならばしないということです。
もし、「悟りを目指してすべてを捨てる」
という若者がいれば、
「つまらないことは、やめろ」
と止めてくれる人の中にこそ、
真の聖者は隠れていることでしょう。
(4)聖者は、「精霊・神々をも
陰から黙って導く人」。
これは、先祖供養や神祭りをする人は、
知らないうちに自分自身が
「精霊・神々を陰から守る人」
になっています。
そして、決して他人に
知られることがない人、
どこにでもいる普通の人。
これが最高の修行者の条件であり、
その正体は如来(菩薩の上位存在)だと
釈尊は示されます。
真に偉い人、清い人は、
社会の中で決して偉い人にはならず、
いつも隠れており、地味で、
言い訳・弁解の下手な人だと言えそうです。
自分の身近にいる不器用な人こそが、
実は如来様かも知れませんね。
「柔訳 釈尊の教え 第ニ巻」
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