コノ世で学んだ、
一切の宗教的な固有の教義、
先入観を捨て去り、
自分が生きる社会の常識という戒律を守り、
目覚めの知恵の直感を高め、
様々な個人的なワレ良しの
欲望からの卒業を果たすこと。
そうすれば、コノ世で再び
母体に宿る修行からは解放されることでしょう。
[原始仏典『スッタニパータ』
第一章第八節-百五十二番]
この項を読みますと、
釈尊は自身の教えが後世に
「仏教」と呼ばれることや、
宗教、教団組織と呼ばれることを、
認めていなかった可能性がよくわかる内容です。
凄く革新的、革命的な内容であり、
インド古来の伝統宗教をも否定しています。
しかも、ただの否定ではなくて、
アノ世の真相も知った上での
発言であることがわかる項です。
(1)コノ世で学んだ一切の宗教的な内容は、
その国だけ、その地域だけ、
ある特定の時代の個人が言い出した
内容が始まりであり、
死んだ後の世界には一切通用しないこと。
これを最初の一行で、釈尊は指摘しています。
これは完全に私の腑に落ちます。
私の個人的な死後の記憶、
アノ世の記憶を説明させていただきますと、
アノ世に行きますと一切の言葉の壁や、
人種や、身分の違いは消えています。
まずそこで、自分の生まれた地域の信仰とは、
自分が学んだ世界とは、まったく違うことを
誰もが直感でわかってしまいます。
言葉の説明は不要です。
そこに迎えに現れるのは、
天使と呼ばれるような光の存在です。
その時に誰もが、どんな悪人も、わかることがあります。
これから自分が進んで行く世界は、
「愛情だけで構成されている」ということが、
どんな人も心から腑に落ちて「しまう」のです。
もう圧倒的な重力のように、
理由なくわかります。
この時点から、コノ世で良心に
反した行為をしてきた人は、
自分の内部からのあぶり出しに苦しみだします。
この時には、自分がコノ世で金銭を注ぎ込んで、
「アノ世の教団の霊界(天国)に自分は行ける」
と信じていたことが間違っていたのが、
誰もが直感でわかってしまいます。
もっと普遍的な、人類に公平に
共通する世界が実在することがわかってしまいます。
(2)自分が生きる社会の常識という戒律を守ること。
釈尊は、宗教の戒律よりも守るべきは、
社会の常識だという目が覚めるような
一撃をおっしゃっています。
もうこの一言で、懸命に戒律を守って
苦行してきた人はひっくり返るような指摘です。
宗教的な戒律とは、
自分が助かりたい一心の、
自我のワレ良しになっていないか?
冷静な注意が必要です。
宗教の戒律ならば、社会常識を無視しても
良いなんてことはありません。
やはり社会に迷惑をかけない常識を
守っていないと、宗教の戒律が逆に悪い因果を
創ることを釈尊は指摘しています。
考えてみますと、その国に、その時代に、
その家に、自分が生まれたことは、
完全に自分自身の前世からの因果の結果です。
だから、「郷に入っては郷に従え」、
その社会の常識や法律に従うことが
真の霊的な修行になることが言えるのは、
「その内容は別として」よくわかります。
(3)正しい常識から「来る」直感を高め、
(4)ワレ良しの欲望になっていないか?注意すること。
はたして、常識という社会修行は、
直感をもたらすのでしょうか?
はい、これは本当にもたらします。
しかも、正しく幸福になれる方向も、
自然とわかり始めます。
変な憑依からの直感は、
右往左往するだけであり、
心身が痴弊して貧乏になっていきます。
色々な引き寄せ術は、
逆の「結果」を呼ぶことでしょう。
そして最後に釈尊は、
以上を本当に実践して成し遂げれば、
コノ世に転生するという苦行から
卒業することが可能になると、
アノ世を見通した上で発言しています。
この場合は、苦行としての転生のことであり、
たまに遊ぶために転生してくる
「善徳が巨大な魂の転生」とは区別します。
まずは、宗教的な一切の先入観を捨て去り、
愛情と思いやりを柱とした感情を持ち、
コノ世の社会常識を尊重して守るという
「修行」を今日もしてみましょう。
正しい直感と、怪しいことも
何となく雰囲気でわかるという、
知恵をもたらし始めることでしょう。
自分自身の良心を信じて歩きましょう。
「柔訳 釈尊の教え 第二巻」
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お客様の声
君津本店
●ワンピースの胸のところに付いた
食べこぼしのシミがきれいになって
喜んでいただきました。
(40代 女性)
●他店で毛玉を取って欲しいと依頼
したがきれいにならずご来店され、
きれいに取れて喜んでいただきまし
た。(20代 男性)
伊勢丹新宿店メンズ館
★カレーのシミと首回りの皮脂汚れ
がキレイに落ちて、とても喜んでお
られました。「皮脂汚れがこんなに
きれいに落ちるなら、あと3着くら
い持ってこようかな。」と、お話で
した。(60代 男性)