究極の静寂な段階の
涅槃(天国のこと)にいよいよ近づき、
生きながら体験をしたとしても、
仏教の真理の本質を本当に理解した人ならば、
人として必ずしなければいけないことがあります。
それは、ひたむきな求道者としての
態度であり続けること。
それも脇目も振らない、
ひたむきさであること。
優しい思いやりのある言葉のみを話すこと。
常に柔和な微笑みでいること。
もっとも大切なことは、
人間として非常に謙虚な
人物でなければ本物ではない。
[原始仏典『スッタニパータ』
第一章第八節―百四十三番]
「私は悟った!」「光明を見た!」「神秘なる体験をした!」
と自称したところで、
それは他人には分からないし、関係ないことです。
そう言われても、
「ああ、そうですか」「良かったね」と思うしかありません。
釈尊は、そんな自称の神秘体験よりも、
その人物が「人間として」、
・ひたむきで、他人に優しくて、
常に微笑む人であり、
・謙虚な人であるか、否か?
これらのことのほうが、
非常に重要だとおっしゃっています。
「仏教の本質はこれだ」とも指摘されています。
さすがは釈尊です。社会的にもバランス感覚のある、
常識のある人物だったことがわかる項です。
そうしますと、現代社会にも多い、
悟ったと自称して高額な伝授(?)料金を
徴収する偉そうな先生ほど、
本物の真理から程遠い人物だと言えます。
ある出版社の精神世界を専門に
担当する人の話を、
知人経由で伝え聞いたことがあります。
有名な先生でも、表向きは柔和に見せていても、
陰では身近にいるスタッフや親族を
罵倒している先生、
中には口だけでなく手も出す、
人や物に当たる先生も。
こういう先生は、ニセモノばかりだったと
断言されていたそうです。
まさに、この項で釈尊が指摘する通りです。
*悟りよりも、コノ世では大切なことがある。
*それは、どんな人も、
謙虚であらねば真理から離れること。
非常に単純で明快なことです。
逆に言えば、ひたむきで、
他人に優しくて、常に微笑む人であり、
謙虚な人物。
こういう人の中にこそ、
本当に悟った人物が
「隠れている」という指摘でもあります。
今の社会の中にも、男女を問わず、
このような本物がおられることでしょう。
さらに言えば、ひたむきで、
他人に優しくて、常に微笑む人であり、
謙虚でいること。
これを雑多な厳しい社会の中で、
もし自身の求道のテーマとして生きれば、
*その人は悟る可能性がある。
*生きながら涅槃に入る神秘体験を垣間見る。
とも、この項は示唆しています。
なるほど釈尊こそは、
コノ世のあらゆる宗教的な苦行を、
死ぬ手前までやり切ったが悟れず。
「ダメだこりゃ」とあきらめて
木陰で自身の死を待っていた時に、
重労働の運搬をする女性から
「可哀想に」と思われ、
お情けの乳粥の施しを受けて、
悟りに落ちました。
苦行よりも、他人からの慈悲の
有り難さに真から気づいた時に、
悟ったわけです。
*ひたむきで、他人に優しくて、
常に微笑む人であり、謙虚でいること。
これが悟りにも重要であることがよくわかります。
これを人生の中で、
自分なりに心がけるだけでも、
運命が変わることでしょう。
皆様の参考になれば幸いです。
「柔訳 釈尊の教え 第二巻」
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お客様の声
君津本店
●ずっと着てなくて、忘れ去られてい
たスーツ(ほこりと汚れ)が、水洗い
とシリコーンドライ、そして部分シミ
抜きでとってもきれいになって、とて
も喜んでいただきました。
(40代 男性)
伊勢丹新宿店メンズ館
●醤油のシミが付いたサンローラン
のキャップがきれいになって、どこ
にシミが付いていたのか全くわから
なくなりました。「お客様の品物な
のでキレイになってよかったです。
」と、大変お喜びでした。
(20代 男性)