過去の喜怒哀楽は、
もう遠くに置き去りにしなさい。
それよりも今の生活の中で、
心が平静で冷静な極みの中に
安住して静止している禅定(ぜんじょう)を
身に付けていることが最大事なのです。
どんな交わり、集団の中に
自分がいましても、
自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで一本角が立つ
サイのように一人で歩みなさい。
[原始仏典『スッタニパータ』
第一章第三節-六十七番]
禅定(ぜんじょう)とは、
仏教において心が動揺することが
なくなった一定「静止」の状態を指します。
心が平静で冷静な極みの中に
安住して静止している禅定の実践によって、
心が見える景色や他人に一切乱されない時、
それは三昧(さんまい:サマーディ)の状態と呼ばれます。
また、禅定によって心を一切
乱されない力のことを、
心の定力(じょうりき)または禅定力と呼びます。
人は仕事をしながら、生活しながら、
過去にあった喜怒哀楽や過去の異性に
自分の心を静止させることが得意です。
まさに「心ここに在らず」が人は得意なのです。
これでは今の生活でも失敗や、
愚かな間違いを繰り返すことになるものです。
釈尊は、これではダメだとおっしゃっています。
では、どうすればよいのでしょうか?
過去の喜怒哀楽は、
遠くに置き去りにしなさい。
もう済んだことは、心から離して、遠くに
置いておく心がけを知っておきなさい。
ということです。
これを人は意識すれば
可能であることを知っておくだけでも
変わっていきます。
人は、過去の中に
心が住んではいけないのです。
今の生活の中に心が住まなければ、
人は改善も成長もしません。
以上の考察を読んで
改めて思いますことは、
道元さんの禅宗こそが、
釈尊の直伝の「実践」「実行力」を
現代にまで残していると思われます。
*掃除・料理道・畑仕事などの
労働、街に出て他者との触れ合い⋯⋯、
これらを「作務」として
一日の大半において重視する実践。
*生活の中で「心を静止させる」実践。
*今だけを見る、ありのままを見る、
無思考への挑戦。
そして私が思いますには、
隔離・閉鎖されて、
お膳立てされた環境の中で
これをおこなうのは、まだ半分なのです。
これを誘惑に満ちた雑多な世間の中で
心がけることこそが、
大きな飛躍と成長を生むと感じます。
まさに社会の中で、嫌な同僚や上司の中で、
家庭でもストレスがある中で、
心が平静で冷静な極みの中に
安住して静止している禅定を目指すこと。
これを、ただ座る瞑想
(ムダで贅沢な浪費です)ではなくて、
働く動きの中で目指すのです。
これは知らずに道元禅を
自分で実践することになります。
今日も自分なりに、雑多な社会と生活の中で、
自分の心を「平静」と「冷静」と「安心」に
静止させる挑戦をしてみましょう。
その方法の入口は、
自分で自分自身の心と思考を、
静観・観察して見る
努力をすることからなのです。
この実践の継続が、
嫌な過去も遠くに置き去りにして、
心の革命を起こすのです。
「柔訳 釈尊の教え 第一巻」
著:伊勢白山道より転載
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