他人と二人でいる時は、
何でも過剰に詳細を語り過ぎるものである。
後からこれが、未来において
恐怖するべき災いをもたらす
可能性を熟慮しておきなさい。
だから、どんな交わり、集団の中に
自分がいましても、自分一人で
歩く覚悟を持ちなさい。
まるで一本角が立つサイのように
一人で歩みなさい。
[原始仏典『スッタニパータ』
第一章第三節-四十九番]
読者からの相談に実際にあることなのですが、
*同僚にや自分の特殊な
家庭事情を話しすぎた。
他人に漏らさないか心配です。
どうすればよいでしょうか?
*酒の席で、自分が昔にした
イタズラを思わず話してしまった。
警察に通報されないでしょうか?
このような心配事を、中には話してから
数年が経過していましても、
真剣に何度も相談する人がいます。
近年は、このような人が増えていると思います。
人間は、自分の心が弱った時に、
過去に自分がした発言を思い出して
心配するようです。
現実には、このような済んだ会話は、
録音がない限り心配は不要です。
問題はないです。
今の社会では、録音がされていたとしても、
法的に拘束力を持たせるには、
金をかけて弁護士を雇ったとしても、
難しいものだと私は考えます。
まず、そんな暇人はいませんから大丈夫です。
問題は、釈尊が二千五百年も前に
すでに指摘をされていることです。
「他人に何でも話しすぎるな!
後から心配することになるぞ」
とおっしゃっています。
普通の解釈では、
自分が話したプライバシーが、
後から災いを呼ぶという「話の内容」の
指摘だと思われることでしょう。
でも私の感応では、
その話の内容はまったく問題ではなくて、
*自分で後から心配して、
自分自身を後悔して心配すること。
*生活のすべてにおいて、
これもあれもアノ話からの
嫌がらせだと結び決めつけ、
自分で被害妄想に陥ること。
*つまり、話の内容は問題ではないのに、
自分の猜疑心がすべてを
自ら破壊することになる災い。
*中には、自分が話してしまったという
心配心から仕事を辞めてしまい、
無職になってますます病む人も。
つまり、自分の心配心から
「自分で自分自身を破壊する災い」を
釈尊が指摘されていると私は解釈します。
二千五百年を経過しましても、
人間が心配心に落ちる盲点は、
まったく変わらないようです。
*自分で自分自身を
心配心から破壊しないために、
他人には余計なことを話すな。
*いつでも、自分一人で淡々と
歩いて行く覚悟をしていなさい。
これが逆に、
他人と良い交友ができる秘訣なのです。
このように釈尊がおっしゃっていると
感じてなりません。
今日からは他人と話すプライバシーは、
ほどほどにうまくかわして、
後から自分に心配心が
起こらないように生活をしましょう。
これが、自分自身に明るく
ムダな心配のない生活をプレゼントしてくれます。
「柔訳 釈尊の教え 第一巻」
著:伊勢白山道より転載
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お客様の声
君津本店
●「白洋舎さんに出して落ちなかっ
たシミがわかんないよ~。すごいね
。やっぱり流石だね。」と、喜んで
いただきました。(60代 男性)
木更津店
●今日は、今までで一番多い来客人
数でした。たくさんのお客様が安心
して出してくれています。
伊勢丹新宿店メンズ館
●ジャケットの数か所のシミ抜きと
修理でしたが、「きれいに仕上がっ
てますね。」とお喜びでした。
(30代 男性)