もしも、
*知恵があり、思いやりが深く、
*自分と目的が同じであり、
*正しく生きようとすることを
自分の修行とする。
このような友人がいる場合は、
どんな因果、困難も気にすることなく、
あるがままに自然に、
喜んで共に暮らしていけばよいです。
[原始仏典『スッタニパータ』
第一章第三節-四十五番]
しかし、そのような同伴者を
得られない場合は、
どんな自分の栄華や実績も
気にすることなく、
どんな交わり、集団の中に
自分がいましても、
自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで一本角が立つサイのように
一人で歩みなさい。
「原始仏典『スッタニパータ』
第一章第三節-四十六番]
前半の四十五番の項は、
釈尊の教えを共に求めていく
サンガ(組織)・仏教集団を
形成していくことを釈尊が認めた、
とする根拠の一つにされている項です。
「サイのように、ただ一人で歩け」と
連呼する釈尊の教えなのに、
どうして仏教集団ができたのか?
という大きな根本的な矛盾を
説明する項だとされています。
でも、この問題は四十五番だけを読みますと
「釈尊が集団になることを認めた」と
解釈されがちですが、
四十六番を読みますと、
釈尊の真意・深意が見え始めます。
この二つの項を続けて読みますと、
*自分と同じような志・目的を持つ
知り合いがいれば、共に歩んでも別に良いよ。
*でも、そういう知人が自分にいなければ、
無理は不要です。
自分一人で歩いて行けば良いんだよ。
つまり、この二つの内容に共通する内容は、
釈尊が「自然でありなさい」とおっしゃっていると、
私は感得します。
自分と似た方向性の他人がいる場合は、
その人を無理に拒絶して
自分一人でいようとすることも自然ではない。
そこに無理がある。
自分の執着がある。
もしそういう人がいれば、
「自然に」共に住む流れになれば、
それも良いということです。
そして、もしそういう人がいなくても、
別に気にすることはなく、
自分一人で生きれば良いということです。
釈尊の教えの根本は、
とにかく、「天上天下 唯我独尊
(宇宙には、たった一つの存在しかいない。
自分自身も、その一つの中の一部に過ぎない)」
ということに変わりはありません。
この基本の上で、コノ世で生きるには
前記の二つのパターンの内、
どちらでも自然になるほうで良いということです。
だから、「釈尊が集団を認めた」
と解釈をしましても、
あくまでも「唯我独尊」を忘れてはいけません。
全体で一つ。
自分一人であっても、
宇宙一つの中に、内側に、
自分がすでにいること。
「一即多 多即一(いっしょくた た・すなわちいち
,華厳経(けごんきょう)の中の言葉)」
*一つであるが、
無数(一人の人間は、無数の細胞から成り立つ)。
*無数であるが、全体で一つ
(無数の細胞は、全体で一人を形成する)。
この法則が、コノ世のすべてに貫徹しています。
家庭でも、会社でも、国家でも、地球でも、
すべてが「一即多 多即一」です。
この二つの項を観ましても、
やはり釈尊とは偏狭な変わり者・
堅物では決してないのです。
愛情に満ちた自由な御方です。
現代に生きる私たちのほうが、
「こうであらなければいけない」
という呪縛にかかっていると感じます。
この話で覚えておいて欲しいことは、
「一即多多即一」。
この視点で、日常の雑多な揉め事、
悩み、仕事を見て欲しいということです。
すべては慌てないこと。
なるようになります。
ただし、自分なりの最善を尽くす
努力を常にしていることが絶対条件です。
「柔訳 釈尊の教え 第一巻」
著:伊勢白山道より転載
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お客様の言葉
君津本店
★60代・男性
「あまりクリーニングに出いモノがないから、
近くのクリーニングに出していたんだけど、
やっぱり、ここがいい!!」とおっしゃって頂き
ました。古くからのお客様です。
木更津店
●40代・女性
「いい物はここに出さないといけない」と、
と高級衣類を出しに来てくださいました。
ここなら安心して出せるからと喜んでいら
っしゃいました。
伊勢丹新宿メンズ館店
●30代・女性
ロングコートにかかった紅茶のシミがキレイに
取れていて、嬉しそうにお持ち帰りになられ
ました。