たくさんの牛を飼う、
ある信仰者は言いました。
「私は、今日もご飯の準備を整え、
牛の乳握りも終えました。
大きな河の側に、
家族と一緒に住んでいます。
私が住む家の屋根は立派に葺(ふ)かれ、
内部には暖かい火が灯されています。
先祖を祭る献火も供物も絶やしません。
さあ神様、もし雨を降らせたいならば、
いつでも降らしていただいて結構です」
[原始仏典『スッタニパータ』
第一章第二節-十八番]
釈尊は答えました。
「私は、怒る心からすでに離れており、
常に素直な心の状態にいます。
今日は大きな河の側で、
一夜の一時しのぎの宿を借りるのみです。
私の心には、身を隠す屋根が
すでにありません。
ムラムラと湧き起こる
ワレヨシな欲望の火もありません。
さあ神様、もし雨を降らせたいならば、
いつでも降らしていただいて結構です。
[原始仏典『スッタニパータ』
第一章第二節-十九番]
第一章第二節は、
真面目に牛飼いをする
信仰者と釈尊との対比のような形で、
真理を示唆する表現になります。
第一章第一節のような
直接的な真理の示唆ではなく、
一般の信仰者との比較で
真理を「考えさせる」ものとなってます。
この牛飼いの信仰者は
真面目に働く立派な御方だと、
今の社会から見ても思います。
*真面目に正業を持って家族を養い、
*日々の勤務も怠ることなく、
生活の準備も万端にしている。
*働いて屋根のある家を建て、
先祖を祭る火も、
暖炉の火も絶やさない。
その上で、
「さあ神様、雨を降らせたいならば、
いつでもどうぞ」と言える
心境になれた人でもあります。
現代人は屋根がある家に住むことが
アタリマエであり、
その前提でいます。
だから、小雨ならば
雨を恐れる人はいませんが、
古代インドでは屋根のある暖かい家は
アタリマエではありませんでした。
ただし、このような安心感は、
モノ(家・屋根・家族・
暖炉・供養行為⋯など)が
ある上での安心感なわけです。
「自分は、真面目に働いたから
モノがある。神様、雨を降らすならば、
いつでもどうぞ」
というのは、現代人も陥っている
「思い上がり」ではないでしょうか。
生活が裕福になるほど
神様を軽視するサガが、
人類には古来からあります。
慢心は、神に弓を引くことになります。
これは自分に弓が反射します。
NASAが初めて人類を
月に到着させた時、
地上では人類は神の領域に入った、
神の法則を支配したという報道もありました。
しかし、月へ行った宇宙飛行士たち
(優秀な科学者・大学教授クラスの
博士ばかりです)は、
言葉では表現ができない存在の
「実在」を思い知ったと言います。
中には今の科学への視点が
根底から崩れ去って、
科学者を辞めて牧師になった人もいました。
この項で釈尊は、
牛飼いの真面目な信仰者を
否定しているのでは決してありません。
ただ、釈尊の教えのすべて、
仏教の根幹は一言で言いますと、
「何事にも執着するな」なのです。
これを「だから何もしなくていい」
と誤解してはダメです。
※真面目に全力で働きなさい。
何にでも最善を尽くしなさい。
*でも、その結果に
こだわってはいけない。
その結果・成果に執着してはいけない。
という意味なのです。
物事の結果・答えに執着することが、
現代人でもすべての悩みの
原因に実際になっています。
例えば、結婚できない、
収入の結果が出ない、仕事がない。
誰もが、その結果だけを求め、
他人と比較して、悲しみ悩みます。
しかし、大事なことは、
それへの努力過程なのです。
結果ではないのです。
現代でも、結果にこだわる・
執着する人は、成功しても
最後は家庭が不幸になる人も多いです。
周囲から人が離れるのです。
お客様も離れます。
「長期で」子孫代々も成功する人は、
結果よりも、今の過程を大切にします。
だからダメな時も、
手を抜かずに継続します。
過程・仕事に喜びがあるからです。
結果に執着する人は、
数字や結果によって
右往左往の投資・人事配置をします。
段々と全部がダメになります。
要するに、
この項で示されていますことは、
*真面目に働き、色々なモノを
手にすることは良いことです。
でも、それに執着してはいけない。
誰もが、いつでも、一人裸で
アノ世に行くからです。
*だから、それに執着せずに楽しんで、
感謝をすることが大切なのです。
「柔訳 釈尊の教え 第一巻」
著:伊勢白山道より転載
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昨日の伊勢丹店頭スタッフ工房研修感想文
久々の伊勢丹新宿店ウォータークリーニングスタッフ研修。
やはり現場に入ってリアルに体験すると
いろんな気づきがあったようです。
今日、オートクチュールの洋服を手掛けるプロを
目指していてる濱田くんが、「人から客観的に自分のことを言われた
ことがないんで、とても勉強になります」と言ってくれました。
彼女は職人肌で、脇目も降らずに集中して探求していくタイプ。
ただ、サービスを中心とする接客フロントとしては、お客様目線
よりも自分目線が強く、相手のニーズやウォンツをくみ取りにくい
ところが見られます。
本当にオートクチュールの洋服を縫うプロの道を歩もうとすれば、
もっと自ら心をオープンにして相手の望むものを感じ取っていか
なければなりません。
そのためにも、「愛情心、気配り、思いやり、優しさ」といった
人間力を身に付ける必要があります。
そんな話を今日は彼女にしておきました。
そして、今の現場を通して、周りからのレクチャーを受けながら
しっかりサービス力を身に付けて欲しいと。
とても純粋で素直な人なので、
レクチャー受けて改善して現場力を身に付けていけばいくほど、
素敵なフロントスタッフとして育ってくれることでしょう。
と、共に服飾のプロとしても。
とても将来が楽しみです。
一緒に来たお姉さんタイプで濱田くんをサポートしていた
鈴木さんも。
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本日は長松寺の報恩講法要
今日は広島で僕が住職を務めている
浄土真宗本願寺派の長松寺の報恩講法要でした。
僕は現在千葉のナチュラルクリーンにおりますので、
長松寺の方は、副住職の潤聖と坊守で妻の文香、跡取りの次男夫婦の
充法と妻の綾ちゃんたちが力を合わせて、報恩講法要やおときの接待を
門信徒の有志の皆さんと共にお世話してくれのした。
法要が終わり掃除をすますと、副住職の潤聖と坊守から今日の報告の電話が
ありましたが、認定こども園の園児たちが参加る「子ども報恩講」も、
門信徒の皆さんが参加するお昼からの「長松寺報恩講」もとても賑やかで
盛会であったようです。よかったです。
ナチュラルクリーンでも報恩講をお勤めし、従業員の皆さんには地元で
名物の巻きずしと甘いきんつばを並べて接待しました。
みんな美味しい美味しいととっても喜んでくれていました。
親鸞聖人の御命日を偲び、神仏や親鸞聖人や先祖に「生かして
いただいて ありがとぅございます」と全員が感謝をさせていただいた
日でした。
とにかく僕たちは現場で自分力・技術力・サービス力の三位一体となった
美しいクリーニング品を仕上げていくのが報恩感謝行です。
みんなそういった報謝の気持を持って今日も一日真剣に仕事に励んで
くれていました。
こういった仏法を現場で生かし、生きれる環境を与えられている
ことにとても感謝しています。
いつもいつも思うのですが
本当に有難いです。そして楽しいです。
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お客様の声
伊勢丹新宿メンズ館店
●バッグの全体の汚れが取れ、あざ
やかな水色がキレイに仕上がってい
たので、「取れてますねー・すごー
い!」と、大変お喜びで、笑顔でお
持ち帰りになりました。