私が小学生の時の話です。
私が砂場で遊んで帰宅しますと、
居間で母親と父親がテレビを見て
くつろいでいました。
私も座ってテレビを
見ようとしますと、
母親が私の服に砂が
付いていることに気づき言いました。
「あら、玄関先に行って
服を脱いできなさい!」
早くテレビを見たいし
面倒くさく思った私は、
「学校の先生が
"ボロを着ても心は錦"
と言ったから嫌だ」
と、小学生特有の
幼稚な詭弁で答えました。
母親は怒って、
「ダメです!」
この様子を側で見ていた父親が、
「おまえは家族や他人に
不快な思いをさせても、
自分の心は平気な錦なのか?」
と言いました。
見ますと、父はヨレヨレの
ステテコ姿でくつろいでいましたので、
私は黙って父のステテコを
指でさしました。
すると父は笑いながら、
「安物を着ていても
汚れていないから、
心は錦で良いのだよ」
と返しました。
私はこの時、
「汚い服で心は錦だと
言いはるよりも、
安物を着ていても
心は錦のほうが立派なことだ」
と小学生ながらに観念して、
玄関先に向かったのでした。
もう一つ、社会人になってからの
エピソードですが、
同僚の結婚式に
同期数名と共に出席しました。
すると同期の一人が、
普段の仕事と同じ
ヨレヨレの背広に
ネクタイだけが慶事用の
白色で出席していました。
私が「それはないよ〜」
と言いますと、
同期は「アイツにはこれで十分だよ。
ボロを着ても心は錦だ」
と笑っていました。
それを聞いて、
新郎新婦だけではなく
親御さんや相手方の親族への
無礼を思い、同じ会社の人間として
恥ずかしく思い心配でした。
以上の話は、
実は精神的な修行・信仰に
こだわる人々にも言える
本質を指摘しています。
*「家族を幸福にするため」、
「家族のために」と言いながら、
家族を放置したまま、
宗教活動や祈願のために
出かけてばかりで家にいない。
*「悟るために」と、
家事の手伝いも仕事もせずに
瞑想ばかりしている。
高尚な「心の」目的を
言いながらこれでは、
トンチンカンな結果・状態になります。
さらにヒントとしては、
釈尊こそは、
ボロボロになりながら
餓死寸前まで苦行に
真剣に打ち込みました。
苦行の先に、
心の錦(悟り)があると
思い込んでいたのです。
でも、本当に肉体が死ぬ寸前まで
行きましたが、
心の錦に至ることが
できないことを思い知りました。
そして、もうダメかなと
あきらめかけた時、
働く女性スジャータから
乳粥の「思いやり」を受けて、
心に錦の虹が訪れて悟りました。
この話には、
私の父が言いました、
「他人に不快な思いをさせても、
自分の心は平気な錦なのか?」
にも通じるものを感じます。
つまり、「ボロを着ても心は錦」
は大切で良い言葉なのですが、
*他人への思いやりや、
配慮、エチケットは
忘れてはいけない。
*自分だけの独善、
独り善がりではいけない。
ということを思います。
そうなりますと、
「安物を着ていても、
清潔な服ならば、
その人の心は錦」は
本当に言えることだと思います。
高所に登るトビ職の職人さんが、
継ぎ接ぎだらけの作業着でも、
毎日洗濯して交換している人が
多いそうです。
その理由は、
「汚れたままの着通しの
作業着の奴は、事故をする」
と言っていました。
職人にとっての作業着とは、
最高の礼服でもあるようです。
自分の道具(作業着)を
大切に洗濯・手入れすることは、
仕事への姿勢を意味するのです。
プロ野球選手でも、
名選手ほど道具を大切にしています。
この項では、悪魔は
牛飼いの信仰者に対し、
「物を持つこと、
物を集めることこそが
人を幸福にする」
と言い、釈尊は、
「物を持とうが持たなかろうが、
それに執着しないことが、
真に心を幸福にする」
と示されました。
服の話も含めまして、
すべてに共通する真理は
「他人への思いやりが一番に大切」
であり、これが本当に
悟るためには不可欠な要素だと言えます。
「柔訳 釈尊の教え 第一巻」より転載
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