食べ物を控え目に節制して、
その人の霊的な穢れが浄化して、
その人の心が無心(空)の
心境に在り続けるならば、
その人が存在した痕跡を
知ることは難しくなります。
それはまるで、
大空を飛ぶ鳥の軌跡が見えないようにです。
[原始仏典『ダンマパダ』第七章―九十三番]
自分なんて、
社会の隅に目立つこともなく、
今自分が消えても誰も気づかないし、
誰も悲しまないだろうと
現代社会では思う人が多いことでしょう。
その一方で、
社会の成功者が
肖像画を会社に残したり、
自分の銅像を多くの人々の目に
触れる場所に残したりします。
では釈尊の理想とする
真に悟った人とは、
どちらの人物に近いのでしょうか?
「その人が存在した痕跡を
知ることは難しくなります」
と釈尊は答えています。
つまり、誰にも知られることもなく、
陰でひっそりと死んで行く人の中にこそ、
真に「尊い人」が存在すると
おっしゃっています。
霊的にも、
生前も死後もいろいろな感情を
多くの生きる人々から受ける有名人よりも、
無名の人のほうが、
生霊の思いからの妨害を
受けずに楽に成仏できるとも言えます。
「自分の名をコノ世に残したい」とは、
自分の見栄というアノ世では
"死ぬほど恥ずかしい自我"
を残すことに霊的になり、
死後の自分の足を引くことになりかねません
有名人ほど成仏し難し、
と言えます。
実は、これとまったく同じことを
真の聖人である老子が、
当時の有名な大人気スター先生だった
孔子に言ったのではないか
という逸話があります。
老子は、真に悟れば語ることを一切やめて、
一般人の中に紛れて静かに生活することに
必ずなると示唆しています。
要は、悟りについて他人に教えたり、
語るために他人と面会する時点で、
それはすでに本物ではないのです。
約二千二百年前に
司馬遷が書いた『史記』には、
老子について当時伝えられていた
伝承・逸話が記されています。
その中に、超有名だった孔子先生が
隠れた聖人がいるという噂を聞きつけて、
苦労して老子に面会したという話があります。
実際にこの二人が会ったことがあるかどうかは
定かではありません。
私が想像するには、
この章の内容から判断しましても、
世間との接触を極力避けていた老子に
やっとのことで無理に孔子が会ったとすれば、
老子は孔子のことを厳しく叱責したのではないか?と感じます。
逸話では、老子に面会した孔子が弟子に、
「老子とは、天に住む真の聖人のようなお方であり、私のような人間には理解できるお方ではなかった。伝説にあるような龍と呼ぶにふさわしい、今までに見たこともない人物だった」
と感想を漏らしたと伝えられています。
老子の思いとしては、
「社会で有名になっている時点で、
お前は"真の合一"の意味ではダメなんだよ」
と言いたかったのではないでしょうか?
(『柔訳 老子の言葉』第五十六章より引用)
この項から私が言いたいことは、
自分は独りぼっちであり、
誰にも無視されているからダメだと
思わないで欲しいのです。
むしろ真理の視点では、
理想に近いのです。
ただし釈尊は、
「その人の心が無心(空)の
心境に在り続けるならば」
としています。
つまり何事にも執着心を残さずに、
コノ世の陰にいることこそが、
それが正解であり真のコノ世の勝利者なのです。
実は、ほんとうに社会で
「突出した」「ケタ違いの」
成功した人には無名にこだわる人が
逆に多いのです。
世の中には、
近所の目立たないオジサンが実は⋯⋯、
という話があるものです。
その人は、真に徳のある人かも知れません。
今の情報社会ほど、
誰にも知られないことはさらに良いことです。
変な投資話も来ませんし、
変な詐欺師も近寄っては来られません。
さらには、怪しい異性に誘われることもありません(笑)。
独りで寂しいことを、
逆に有効利用して、
明るく自分なりに生活する道を
楽しみましょう。
「柔訳 釈尊の言葉」
著:谷川 太一より抜粋転載
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クリーニングのお勉強
●赤いウールのセーターを着ていたら、
汗をかいてしまい、
他のカーディガンや白いコートに
色が移ってしまいました。
この色ジミは取れるのでしょうか?
これは染色堅牢度の問題です。
色は水や湿気などによって
移動する性質があります。
この赤いウールのセーターの場合は、
染色のソーピング不足による
未固着染料の色移りが原因だと考えられます。
汗をかいたため、体と衣服との間が高温多湿状態になり、
その湿気によって色移りしたのでしょう。
色移りは、専門家が正しい処置をすれば
落とすことができますのでm、
クリーニング店で相談してみてください。
「Q&A クリーニングクレーム120」
著:澤 浩平 より抜粋
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