見えない・聞こえない・さわれない、
この三つをそれぞれ別々に追求しても、
その正体を決して理解することができません。
なぜなら、
同じ一つのモノ(真理)を指すからです。
同じ一つの真理が、
コノ世のどこまでも貫徹しています。
結局は、
このようなことを
名づけることができないので、
「無」としか表現ができません。
コノ世の真理である「無」とは形がなくて、
とらえどころが一切ありません。
だから「無」を、
「恍惚」(最高の喜び)と私は表現します。
無という
真理に向かっていっても、
その姿も見えず、真理に従っても、
その後ろ姿さえもわかりません。
古来よりの歴史の流れを見て知り、
その上で今の社会を見ますと、
見えてくる真理が存在します。
それこそが本当の真理の道なのです。
老子は、
コノ世の真理は「無」だと言っています。
私たちが「無」と聞きますと、
何もない、虚しい、つまらない、寂しい⋯⋯
などと思いがちです。
しかし「無」とは何もないどころか、
恍惚、絶対的な歓喜、
最高の快楽だと言っています。
「無」が、どうして最高の快楽、
仏教でいう混繋、
「三」味の境地なのでしょうか?
これを老子は、
人間の視覚・聴覚・触覚を「超えた先」に
存在するのが「無」であり、
恍惚としか言葉がないとしています。
逆に言いますと、
人間が視覚・聴覚・触覚に
"ダマされている間"は、
本当の恍惚を体験することがない
としています。
そして老子は最後の数句において、
このような見えない真理を
特殊な体験者(視覚・聴覚・触覚を超えた者)
だけではなくて、
普通の誰もが認識するためには、
歴史と今の社会の現状を見なさい
としています。
そこには
人間の生活の「継続」が存在するわけです。
人類が継続するのは、
子どもを育てる愛情がコノ世にあるからです。
人類が赤子を育てる愛情を放棄すれば、
百年もしないうちに絶滅します。
人類は、
無私の与える一方の愛情を持ち続ければ、
コノ世の社会で生きる間も死後の魂となっても、
自然と恍惚とした良い世界へと
進むのです。
自我の奪い好きではなく、
無我、無私の与え好きの世界へ還りましょう。
「柔訳 老子の言葉 写真集」
著:谷川 太一より抜粋転載
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お客様の言葉
君津本店
●スーツのシミ抜きと修理をされた
お客様が本日ご来店され、
「修理もキレイだし、シミもキレイ」
と、大変喜んで頂きました。
木更津店
●保管をまだ受け付けてもらえること
をとても喜んで頂いてます。
伊勢丹新宿メンズ館店
★50代・女性
ジャケット、ブラウス、スカート
「どれを見ても新品の時よりキレイ!」
と大変喜ばれていらっしゃいました。