何も恐れなく成れた人。
コノ世の一切に無欲に成れた人。
思い悩むことが無くなった人。
このようにして、
悟りの中でも究極に到達した人。
そのような人は、
生死の弓矢(ゆみや:転生・生まれ変わりに突き進む弓矢)を
超えたことに成ります。
つまり、
今生が最後の受肉と成り、卒業します。
(原始仏典 ダンマパダ24章-351番)
(感想)
釈尊が重要な秘密を述べています。
悟りの段階(10段階は有ります)の究極は、
その人は、もう生まれ出なく成ると言っています。
普通の解釈ではここで終わります。
だから、今までの多くの求道者は、
もうコノ世に生まれ出ないこと、
卒業することが目的だと思っています。
しかし、これは間違いなのです。
釈尊が言われる「そのような人」「その人」とは、
輪廻転生(何度も生まれ出ること)する「個性」が
終焉(しゅうえん)することを指すのです。
* 個性=自我
だと理解をしてください。
転生をし続けている・ingのは、
常に魂の「個性」「サガ」=自我、
こだわり、かたより、とらわれの癖の部分なのです。
もっと素直になって、
こだわり、かたわり、とらわれずに、
「まっいいか」と心豊かに生きれ
いけばよいのです。
しかし、
人の「自我」が、
ひたすら生まれ変わりを繰り返しています。
その自我(ワレヨシ)を、
今生で「素直」に変えてしまえば、
その連綿と数千年以上も繰り返し「生まれ変わり」を継続して「来た」、
1つの個性を終わらせることが可能なのです。
自我の終焉=悟り、です。
多くの人間が、個性=魂、
だと思ってしまっています。
これは間違いなのです。
魂=神性・仏性(良心)、なのです。
誰もの心の本当の正体は、「神様・仏様」なのです。
しかし、自我(ワレヨシ)の部分が、
その魂を癖の強い「人間」に“しています”。
人間に変えています。
悟りの中でも究極に到達した人は、
次は転生(生まれ変わり)が逆の意味で自由に成ります。
たまには、素直なまま(神性・仏性を維持したまま)、
コノ世に遊びに来ることも自由に成ります。
重力により、強制的な因果の借金返しのための
自我の転生をした人間とは、
少し違った楽しそうな人として生まれ出ています。
たまに今の日本でも、
幼児や無邪気で素直な若い人に見掛けます。
昭和時代には、まず見なかった人々です。
時代の霊的変化を、このような視点でも感じています。
ちなみに、その自由な人々は、有料先生などには120%
成らないことを知って置いてください。
老子のごとく、
社会の表にその姿を見せることは決してありません。
姿を隠したまま、世間の中で泳ぐことを楽しんでいます。
老子こそは、
その書く文章から社会で「名前だけが」超有名でした。
しかし決して、
その姿を公の場に最後まで見せなかったのです。
当時の有名な大先生だった孔子が、
老子に面会をしたくて苦心した話は有名です。
誰もが生きている限り、
遅くはありません。
自分の自我(ワレヨシ)を、
素直に昇華させて行けば良いのです。
その時に、釈尊が言われた、
* 何も恐れるな!
* ワレヨシな欲を無くせ!
* 思い悩むな!
これで良いのです。
そして、今を一生懸命に生きましょう。
(原始仏典 ダンマパダ24章-350番)
(感想)
現実的で理知的・聡明な釈尊でありますが、
その話には意外と「悪魔」が登場します。
その悪魔は、現実的に人を害するパワーを有しますが、
釈尊の言われる悪魔とは、自分の外にはいない悪魔なのです。
自分の幻想・心が悪魔を内在しており、
自分の「生活により」その悪魔が発露して来るというものなのです。
普通は悪魔と聞きますと、自分の外側にそのような
恐ろしい実体が存在すると考えるのが人間です。
まさか自分に原因が有り、
悪魔の芽を有しているとは考えないものです。
だから人は、自分以外に問題・原因を探すばかりであり、
他人のせい・何かの責任にすることにより、
自分で安心しようとします。
しかし答えは、自分の外側を見る限り、
改善は絶対にしないのです。
いつまで経っても、自分は良い人は、人が悪い人なのです。
「私もちょっとは悪いとこがあるけど、
やはり人の方が悪い」。
そう思っている限り、
いつまで経っても、悪魔のワナ・束縛を逃れることは
その人は出来ません。
このような悪魔的な心が自分自身に生じた時には、
一体どうすれば良いのか?
これをこの項で釈尊は、
* 自分の心配心を静観することにより、
安静にさせることを楽しみに出来る人。
* 肉体は汚れるものだという前提で、
いつも清潔に心掛けている人。
という心掛けを指摘しています。
* その心配点・懸念点を、慌てずに冷静に静観をしなさい。
* 心身を清潔にするように心掛けなさい。
と言われています。
このような生活の「継続」が、
自分に懸かる悪魔の心を解いて行くのです。
このような継続をしていれば、
「心配するな」
「成るように成る」
と言えます。
今日も、自分の中の悪魔的心な芽を出さないように、
明るく生活を致しましょう。
すべては自分以外に原因を探し始めた時に、
内在する悪魔からの束縛のクサリが伸びて来るのです。
柔訳「釈尊の言葉」著:谷川太一
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今日の体重61.1㎏ 血圧101-54-62
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よく寝ました。
昨日の10時から朝の6時近くまでですから、
およそ8時間寝てたんですね。
起きて一階のリビングに降りていったら、
社長と昨日兵庫から入った智子っちがおしゃべり
(本日は有楽町の阪急メンズ東京ウォータークリーニングへのヘルプ)
していました。
「うぉぉぉ~よく寝たわ。何年ぶりやろうか」「代表、これ、気持ち
ばかりなんですが」とお中元を。
加奈ちゃんはナッツ系、智子っちはおき系、佐生さんはプロテインバー、
幸っちゃんはアミノ酸ドリンク、伸ちゃんはリンゴジュース等々他・・、
食べ物や飲み物が多いいです。そこはバランスを取って。
あれこれと話していると伊勢丹新宿店メンズ館ウォータークリーニング
に出発する加奈ちゃんが二階から降りてきて、
久々に子安庵のメンバーがそろった感じで、盆正月みたいな気持ちに
なりました。
まだ、松村は二階で寝てますが、今日はしっかり寝たらいいです。
起きたら工房の機械の修理がいっぱいあると言ってました。
本当に彼は縁の下の力持ちで、みんなが休んでいる時を見計らって
は機械のメンテナンスを人知れず行ってくれます。
社長が倒れて第一線を退いて15年。法子さんが倒れて5年。
考えてみれば我武者羅に走り続けてきた15年であったように思います。
今いるスタッフたちも、また他のスタッフたちも、本当によくやって
きたと思います。
それは、上手くやってきたとか、スマートにとか、そういうことでは
なくて、本当に不器用であってミスもいっぱいあるけど、頑張って
よくやってきた。よく指示した方向に向かって、よくみんな頑張って
きたと思うのです。
それが今日の「よく寝た寝たわ・・・・・。何年ぶりやろうか」でした。
そして未曽有のコロナ禍や天変地異の時代。
あらためてこれからが本番(今までよりもっと本質的な行動)のスタート
が始まっているわけですが、この15年間というものまだ未熟ですが
行動の基本の「き」は叱られながらも、褒められながらも身につけてきて
いますので、さらにこれからも「淡々」と頑張って行動していけばいい
のです。
「死を意識して生きる」の第五章の中に、「今日もできるだけ、偽善
でもよいから、自分の良心を演じ切りましょう。自分が行動で写した演技
(縁起)が、記録されるのです。行動にできれば、それはウソや偽物などは
関係ないのです。この世は、現実の行動・行為の世界だからです。
行動にできれば、その「継続」は真実となります。
ウソならば継続しません。どうせならば、今回こそは良い役者を目指しま
しょう。その「継続」が真実・実績として記録に残ります。」
と、書かれています。
いくら思っていても、やはり何事も行動して実践しないと悪い役者になって
しまいます。挨拶にしても、ごみ拾いにしても、仕事に関しての他者への
サポートにしても、ちょっとした心遣いにしても、やはり行動がないと
何も記録に、実績として善徳貯金にはならないのです。
「良いこと」と思って感じたら「即行動」。
これからも自分自身の映画の主人公として、良いドラマを撮り続けていき
ましょう。